13話 ※アマルダ視点
裁判所内は暗い影に覆われていた。
あちらこちらから、助けを求める悲鳴が響き渡る。
逃げ回る人々の足音に、仲間を探す声。断末魔めいた声を聞きながら、アマルダはぎゅっと最高神グランヴェリテの腕にしがみついた。
きっと無口な彼なりの、アマルダへの気遣いなのだろう。
最高神はなにも言わずアマルダの手を受け入れてくれるけれど、それでも心が軽くなることはない。
――どうして。
なにも間違ったことをしていないのに、どうしてこんな目に遭ってしまうのだろう。
どうして、正しい人間が理不尽につらいめに合うのだろう。
怖くて、悲しくて、苦しくて仕方がなかった。
目の奥が熱くなり、涙があふれて止まらなかった。
これもすべて、エレノア・クラディールと無能神の仕業なのだ。
「ノアちゃん……どうしてこんなひどいことを」
裁判所の最奥。荘厳な装飾の彫り込まれた扉を前に、アマルダは嘆きの声を絞り出す。
突然現れた大量の穢れに、どれほどの人が呑まれたかわからない。
アマルダに付き添ってくれていた神官たちの中にも、何人かはぐれてしまった人がいる。
アマルダたちを逃がすために、穢れの前に残った護衛もいる。
アマルダたちとともに逃げてきた、神殿上層部の老神官たちは、今はすっかり疲弊しきっていた。
「私を――みんなを傷つけて、いったいなにが楽しいの……! そんなに、今日の裁判を台無しにしたかったの!? これだけ私を苦しめて、大勢の人を犠牲にして!」
エレノアのしたことは、あまりにも自分本位で、あまりにも無慈悲すぎる。
かつての親友の非道を、アマルダは許すことができなかった。
「裁判で人が集まることくらい、ノアちゃんだって知っていたはずなのに! わかっていてこんなことをするなんて――」
アマルダは喘ぐように息を吐く。
今日、この日にエレノアが穢れをけしかける理由――そんなもの、アマルダにはわかりきっていた。
「そんなに、罪を認めたくないの!? 自分が裁かれるのが怖かったの!? 裁判ができなくたって、ノアちゃんの罪は変わらないのに!!」
頬を涙が伝い落ちる。
ぱたぱたと涙が地面を濡らす今も、どこからか悲鳴が響いていた。
それが余計に、アマルダの目に涙を浮かばせた。
周囲では、神官たちが泣き濡れるアマルダを痛ましげに見つめていた。
護衛たちがエレノアへの怒りに歯噛みをし、神殿上層部の神官たちが言葉もなく首を振る。
誰もがアマルダに声をかけるのをためらう中――歩み出たのは、一人の老神官だった。
「……アマルダ様、お気持ちは痛いほどわかります」
穏やかな顔を気遣うように歪ませ、老人はアマルダに呼びかける。
この状況でも落ち着き払った彼こそは、神殿における最高権力者――神官長だ。
「ですが、今は嘆いている時間がありません。エレノア・クラディールの思い通りさせないためにも、まずはなにより、グランヴェリテ様とアマルダ様の身をお守りする必要があります」
神官長はそう言いながら、アマルダから目の前の扉に視線を移す。
人々の前にたたずむ荘厳な扉を見上げると、彼はさらに一歩前に出た。
「まずはこちらへ。この先は、裁判所の中でもっとも神聖な場所です」
「……もっとも神聖な場所?」
まだ止まらない涙を拭いつつ尋ねれば、「ええ」と神官長が肯定する。
そのまま彼は、老いた手で扉を押した。
扉は見た目通りの重たい音を立て、ゆっくりと開いていく。
少しずつ見える扉の奥の景色に――アマルダは思わず息を呑んだ。
「ここは、神前の法廷です。神々のために作られた、堅牢にして清涼な場所。この中であれば、悪しきものは入って来ることができません」
「ここって……」
涙に濡れた目を瞬かせ、アマルダは扉の先を見つめた。
見えるのは、神聖さを示す白い木造りの法廷だ。内部は思いがけないくらい広く、法廷というよりは、まるで神殿の一室のように見える。
この場所に、アマルダは覚えがあった。
裁判所の最奥にある、もっとも神聖な場所。
白木でできた神前の法廷とは――今日、エレノアの裁判が行われるはずだった場所だ。
「その通りです」
アマルダの考えを読むように、神官長はゆっくりと頷いた。
皴の刻まれた彼の顔には、あくまでも落ち着いた笑みが浮かんでいる。
その笑みの奥に――狡猾な、
「グランヴェリテ様、アマルダ様。外のことはあとに任せて、我々はここで待ちましょう。――なに、裁判を台無しにする必要はありませんよ。ここには、十分な人間が揃っているのですから」
目を細める神官長に、アマルダは眉根を寄せた。
神官長の言う意味をすぐに理解できない。言葉を咀嚼するように二度、三度と瞬きを繰り返し――。
――――あ。
そうだわ、とアマルダは口の中でつぶやいた。
この場には、アマルダとともに逃げてきた、裁判の進行を担う神官がいる。
判断を下す神殿上層部の老神官たちがいて、公正な裁判を見守る最高神がいる。
王家の使者はいないけれど、今日この場所で裁判があることは、彼らも知っているのだ。
中止の連絡をしていない以上――アマルダたちが法廷にいる以上、言い訳はできない。
この裁判に来ることができなかったとして、無断で欠席したのは彼らの方。
正規の手段で裁判をしたアマルダたちが、咎められるいわれはないはずだ。
――台無しにならないわ。
あれほど止まらなかった涙が、いつの間にか止まっていた。
裁判は続けられる。
エレノアの――――悪人の思い通りにはならない。
――ノアちゃんは、裁判を恐れて穢れを放ったんだもの。
ならば最高神の聖女として、アマルダは裁判を中止するわけにはいかない。
穢れという卑劣な手段に出たエレノアにこそ、正しき裁きを下さなければならない。
だって――。
なにも間違ったことをしていない善良な人間が、人々を苦しめる悪人に屈するなど、あってはならないのだから。
「――どうぞ中へ、アマルダ様」
決意を胸に、ぐっとこぶしを握るアマルダに、神官長が中に入るよう促した。
「万が一に備え、護衛も何人かお傍に。そうしたら扉を閉めましょう。残る護衛たちには、入り口を守らせますので」
「ええ」
神官長の言葉に、アマルダは素直に頷いた。
こうなった以上は、アマルダも逃げるだけではない。
聖女として凛と胸を張り、まっすぐ法廷に顔を向け――。
「――――ま、待ってください!」
扉の先に足を踏み入れる直前。
思わず、という様子で、アマルダの傍にいた神官の一人が引き留めた。
声に振り返れば、まだ若い、いかにも実直そうな青年がアマルダを見つめている。
「このまま――閉じこもると言うのですか!? なにもせず、待ち続けると……!?」
「それがどうした? なにか気になることがあるのかね?」
声を上げた神官に、扉の前に立つ神官長が眉をひそめた。
落ち着いた声音は変わらないが、今は少し低い。余計な口を挟む若い神官を、咎めるような調子があった。
「外にいては危険だろう。グランヴェリテ様とその聖女アマルダ様を危険に晒すわけにはいくまい」
「そ、それはそうですが……!」
でも、と言って、若い神官は顔を上げる。
視線はきょろきょろと落ち着かない。
どこからか――止まない悲鳴が響くたびに、彼の視線が出どころを探すようにさまよった。
「こ、この場にいない者たちはどうするのですか……!? はぐれた神官たちは!? 今も逃げ回っている者たちは!?」
「それは――」
思わず口にしたアマルダに、若い神官の視線がぐるりと向かう。
今までずっと、アマルダを聖女と讃えてきた神官だ。慈悲を求めるかのように、彼はアマルダに縋りつく。
「アマルダ様! 彼らを見捨てるおつもりではないですよね!? 我々だけ閉じこもるなんて、そんなこと!!」
「きゃっ……!」
肩を掴む若い神官の力に、アマルダは小さく呻いた。
痛みに顔をしかめるアマルダに、周囲の護衛たちが殺気立つ。
許可なくアマルダに触れたことに、腹を立ててくれているのだろう。
だけど――アマルダは、若い神官を怒る気にはなれなかった。
「……見捨てるなんて」
ただ――悲しかった。
声を荒げ、怒鳴りつける目の前の神官は、たしかに逃げ惑う人々の身を案じているのだろう。
なにもできないふがいなさに苦しみ、耐え切れずにいるのだろう。
だけど――彼よりもずっと、アマルダの方が苦しいのだ。
それをわかってくれないことが、悲しかった。
「私も同じ気持ちだわ。みんなを放っておけない。はぐれた人たちを助けてあげたい。最高神の聖女として、できることをしてあげたい」
言いながら、止まったはずの涙がもう一度じわりとにじみ出す。
誰よりも、アマルダ自身がこの穢れに心を痛めている。穢れに襲われた人々に涙し、犠牲者が増えないように祈っている。
「……でも」
でも、アマルダは最高神の聖女なのだ。
人々のため、神殿のためには、苦しい選択もしなくてはいけない。
「裁判をやめたらノアちゃんの――エレノア・クラディールの思い通りなの。神に誓う、神殿にとって一番重要な裁判さえ、思い通りにできると思わせてしまうの。……悪人が、正義を踏みにじることを許してしまうことなの」
「アマルダ様…………」
目の前で、若い神官の顔が歪む。
だけどどんな表情をしているのか、もうアマルダにはわからなかった。
視界が涙で滲んでいく。目の前もぼやけて、よく見えない。
ただ、苦しくて、悔しくてたまらなかった。
「見捨てるわけじゃないわ。見捨てたくなんかない! ――でも、こうする他にないの!」
アマルダの腕から、若い神官の手が離れていく。
周囲の護衛たちが集まって、強引に彼を引き離したからだ。
アマルダから遠ざけられ、引き倒された裁判所の回廊で、若い神官は膝をつく。
そのまま動かない彼に向け、アマルダは首を横に振った。
あふれる涙は止まらない。聖女として、人々が傷つくことに、身を切るような痛みを感じている。誰よりも、アマルダが傷ついているのだ。
それでも顔を上げるアマルダに、周囲のわかってくれる人々が、感嘆の息を漏らす――。
その吐息を聞きながら――もはや、逃げ惑う人々の悲鳴も耳に入らずに、アマルダは口を開いた。
自分の選択を、わずかも疑うことのないままに。
「見捨てるわけじゃないけど――――仕方ないことなのよ」
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