12話 ※リディアーヌ視点
「――――おいリディ! やべえぞ! 話し合いなんかしてる場合じゃねえ!」
アドラシオンの屋敷から移動し、現在は裁判所にほど近い森の中。
森にぽつんと建てられた、ほとんど使う人のない物置小屋に潜んでいたリディアーヌは、駆け込んできたルフレの大声に飛び上がるほど驚いた。
なにせ、今は裁判を目前にして待機中の身。
万が一の事態に備え、王子の護衛としてやってきた兵たちと話し合いをしている最中なのだ。
この『万が一の事態』というのは、つまりは裁判が想定通りに進まなかった場合のことである。
神官たちの説得が叶わず、正攻法でエレノアを助け出せなかったとき――力尽くでエレノアを奪還するのが、精鋭として選ばれた彼らの役割だった。
要するに、どう考えても神殿に敵対する行為。
うっかり神官たちに見つかってしまえば、エレノアを助けるどころかリディアーヌたちが捕まることになるのだ。
「ど、どうされたんですか、ルフレ様? すみませんが、もう少し声を落として――」
「そんなこと言ってる状況じゃねえ!」
慌てて宥めようとしたリディアーヌの言葉を、ルフレは荒い口調で切り捨てる。
待機していた兵や、アドラシオンの屋敷から一緒に来ていたマリとソフィ、レナルドも、何事かとルフレに顔を向けていた。
だけど、ルフレにはそんな人々も見えていないようだ。
血相を変えてリディアーヌを見据えたまま、小屋の外を指さしている。
「アドラシオン様からさっき連絡があったんだ! 裁判所がやばいことになってる!!」
「アドラシオン様? 裁判所?」
ピンとこないリディアーヌに、ルフレは大きく頷いた。
指の先は外を向いたまま、急かすように指先を動かしている。
「穢れが出たんだ! それも、裁判所を覆うくらい大量に! あんな数、俺やソワレじゃどうにもできねーぞ!」
「穢れが……!?」
小屋に響き渡るルフレの叫びに、リディアーヌは目を見開く。
指先を追うように視線を向けると、開け放たれた小屋の入り口から、木々に隠れた裁判所が見えた。
上天気の青空の下。
陽光を遮りそびえたつ裁判所には、深い影が落ちている。
小屋から裁判所までは近い。目を凝らせば、大きく造られた裁判所の窓も目に入る。
窓の向こうで、必死に駆ける――人影のようなものも。
「中に取り残された連中がいるんだ! ソワレがどうにか外まで逃がしてるけど、ぜんぜん追い付いてねえ! このままじゃ、ほとんど穢れに呑まれるぞ!」
リディアーヌは息を呑む。
今日は裁判。すでに王家からの使者もアマルダも、所内に入っていると聞いていた。
――ユリウス様……! い、いいえ、あの方は荒事には慣れていらっしゃるわ! 危険なのはむしろ……!
最高神の聖女たるアマルダには、身の回りの世話をする付き人が大勢いる。
今日は重要な裁判ということで、護衛の数も普段より多い。裁判の進行に携わる神官や、判決に関わる神殿上層部もいるだろう。アマルダの取り巻きである神官たちも、傍聴のために来ているはずだ。
彼らの大半は、剣を取ることもない人々だ。
そうでなくとも、穢れには剣で太刀打ちできない。
最高神グランヴェリテが人々を守ってくれることを期待したいけれど――ここまで、ずっと沈黙を保ってきた神のこと。
この状況でも、まだ静観している可能性を、リディアーヌは否定できなかった。
「……どうしよう、リディアーヌ」
立ち尽くすリディアーヌの横で、同じく裁判所を見つめていたソフィが、縋るように尋ねてくる。
不安を宿した彼女の横顔に、リディアーヌは唇を噛んだ。
「どうしようったって……なにができるのよ、ソフィ」
ソフィの隣に立つマリが、苦しそうに首を振る。
彼女の顔に宿るのは、無力感と諦念だ。
「なにもできないじゃない、こんなの……」
――……いえ。
だけど、リディアーヌにはわかっていた。
なにもできない、なんてことはないのだ。
今まさに、リディアーヌの前には、人々を助けるための『手段』がある。
でも、それは――――。
エレノアを助けるために用意した『手段』だ。
今のリディアーヌには、選び抜かれた精鋭の兵たちがいる。
エレノアの奪還を諦め、この場にいる兵を救援に出せば――一人でも多く民を救うことが、できるのだ。
「…………どうしますか、リディアーヌ様?」
背後からは、レナルドがソフィと同じ問いかけをする。
もっとも、彼の声に縋るような響きはない。
どこか淡々として、落ち着きのあるその声は――判断を仰ぐときのそれだ。
判断をしなければいけないのだ。
今ここで、リディアーヌ自身が。
「…………」
リディアーヌは知らず息を呑んでいた。
頭の中を、一瞬の迷いが駆け巡る。
もとより、兵たちはエレノアを助けるために用意したもの。取り残された人々を救う理由はない。
それに、ここにいる兵は秘密裏に連れてきたのだ。表に出ればかえって騒動になるし、黙って見ていたところで、咎める者もない――。
――いいえ。
そう思えるのであれば、そもそも迷いはしなかった。
「リディアーヌ様、ひとまず様子を見ますかね? まあ、この状況じゃあ、それも――」
「――――いいえ!」
レナルドの言葉に首を振ると、リディアーヌは顏を上げた。
迷いはない。迷っている暇もない。
目の前に救うべき人がいて、救う手段がある。
ならば、リディアーヌがやることは決まっていた。
「計画を変更します! エレノアの救出は中断! 今から、あなたたちの指揮をレナルド・ヴェルスに預けます!」
小屋の中に、リディアーヌの声が響き渡る。
突然指揮を任されたレナルドが、「お」と驚いた顔で強張っているが、リディアーヌは見もしない。
「レナルド・ヴェルスは穢れへの対処法を知っているわ! 穢れを払うわけではなく、一時的に押し返すだけみたいだけど――それで、あなたたちには十分のはずです!」
ぐるりと体の向きを変え、まっすぐに彼女が見据えるのは、王家自慢の兵たちだ。
彼らが救出に向かえば、きっと別の騒ぎが起こるだろう。
取り残された人々を助けたのち、兵を招いたリディアーヌにはどんな罰が下るかもわからない。
――だとしても!
リディアーヌはきつく口を結び、ツンと顎を持ち上げた。
気位の高い公爵令嬢として――誇り高い聖女として、高慢に胸を逸らして息を吸う。
「取り残された人を助けなさい! 王家の兵は、民を見殺しにはしないわ!!」
ここで人々を助けなくて、なにが公爵家。
いったい、なにが聖女だというのか!
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