11話 ※神様視点

「――――エレノアさん!!!!」


 あふれ出す濁流めいた黒い影に、彼は迷うことなく手を伸ばした。

 視界を覆う穢れのすぐ向こう。ヨランに腕を取られたエレノアが、粘つく穢れの濁流の先に見えている。


 ――助けられる!


 この距離なら、手を伸ばせばエレノアに届くはずだ。

 たとえ、それより先に穢れに体を呑まれたとしても――それだけであれば、彼の力で救い出すことができる。


 穢れとは人の心。形を持った人の悪意だ。

 いくら実体を持っても、直接誰かを引き裂く真似はしない。


 穢れは、心を『呑む』もの。悪意に浸し、悪意を伝染させ、同じ穢れに堕とすもの。

 ならば、心を呑まれる前にエレノアを穢れから引っ張り出せばいい。

 彼には、それができるだけの力があった。


 どれほど強力な穢れであろうと、強引にかき消すだけの力があった。

 そのはずだった。


「待っていてください! すぐに穢れを――」


 ――恨めしい。


 消し去る。そう口にする前に、彼の指先が穢れに触れる。

 迷いなく伸ばしたはずの手の先。触れるのは、すっかり聞き慣れた人間たちの嘆き声だ。


 ――妬ましい。


 誰とも知れない人間の、誰とも知れない相手に向けられた悪意だ。

 これまでずっと哀れみ――哀れんできただけの、醜い心だ。


 神にはあり得ない、理解しえない異物。汚泥のように穢れたもの。

 神にとっては、いくら切り捨てても構わない、切り捨てるべき不要物――だというのに。


 ――羨ましい。ああ……どうして!


 身を切るような穢れの悲鳴に、かき消そうとした手が止まる。


 止まったのは、ほんの一瞬。ひとつ息を吐くだけの間。

 すぐに迷いを切り捨てて、彼は再び穢れに触れる手に力を込める。

 エレノアを助けなければと――強引に目の前の穢れを


「エレノアさん!」


 身の内に異物めいた穢れの重さを感じながら、彼は穢れの向こうにいるはずのエレノアに呼びかけた。

 だけど返事はない。

 受け止め、薄れていく穢れの先に、エレノアの姿が見えない――。


「エレノアさん! どこですか!!」


 濁流のような穢れは、今は完全に消えていた。

 半ばは彼の体の中へ、半ばは再び、建物の影へと沈んでしまえば、後に残るのは静寂だけだ。


 冷たい所内の回廊に、立っているのは彼一人だった。

 エレノアも、ヨランも、蠢く穢れの影すらも見つからない。

 ただひたすらに伸びる暗い回廊の先を見つめ、彼は立ち尽くすことしかできなかった。


「…………」


 エレノアを呼ぶ声も、もはや口から出なかった。

 無人の回廊を前に、彼は愕然と自分の手のひらを見下ろす。

 指先には、未だ異物を受け入れた不快感が残っていた。


 ――なぜ。


 吐きだす息は震えていた。

 胸の中に、恐怖にも似た不安と後悔が渦巻いている。

 あの一瞬。あの間さえなければ、エレノアを助けることができたはずだった。


 ――なぜ、ためらった。


 かつての彼であれば迷わなかった。

 慈悲深くも冷徹に、すべてを消し去ることができた。


 穢れを消し去ることに、なんの感慨も、同情も抱いたことはなかったのに。


 ――……エレノアさんを、探さないと。


 竦むような気持ちを呑み、彼はまたひとつ息を吐く。

 そうそう簡単に、彼女は穢れに堕ちはしない。

 エレノアには彼が与えた穢れ避けの加護がある。

 エレノアの細い魔力では、分け与える加護も少なく、どれほど持つかはわからないが――少なくとも、あの穢れにすぐに呑まれたということはないだろう。


 探すだけの時間はある。

 きっと、見つけ出すことができるはずだ。


 ――必ず、助ける。


 自分自身に言い聞かせるように、彼は強張る指を握りしめ――。



 覚悟を決め、顔を上げるよりも先に、彼の背後でまた別の悲鳴が響く。


 野太い声の出どころは、庭に逃げた兵たちだ。

 止まない悲鳴に振り返れば、怯えて震える兵たちと――彼らをぐるりと取り囲む、無数の穢れの影がある。


 建物の奥からは、さらに別の、誰とも知れない人間の絶叫が響いている。

 逃げ遅れた人々がいたのだろう。助けを求める叫び声が、今は中からも外からも響き渡っていた。


 建物の影は、なおも濃さを増していく。

 息を呑む彼の横を、凍るように冷たい風が吹き抜けた。

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