10話
周囲に沈黙が満ちる。
時が止まったかのように、誰もその場から動けなかった。
――……うそ。
目の前の光景が信じられず、私は呆然と瞬いた。
オルガを呑んだ黒い影は、そのままとぷりと壁の中へ戻っていく。
だけど、まだそこにいることはわかっていた。
壁の中で、シミのような影が蠢いている。
その影が、再び獲物を探すように、重たげに膨れ上がったとき――。
「に――――」
私は足を踏み出し、声を張り上げていた。
「逃げて!!!!」
瞬間、凍り付いていた時が動き出す。
静寂を破り、兵たちが思い出したかのように悲鳴を上げた。
逃げろ、穢れだ、どうして、助けて――――。
口々に叫びながら、兵たちが建物から逃げ出そうと走り出す。
剣を抜くのも忘れ、他人を押しのけ、我先にと逃げる先は、私たちの立つ入口だ。
真正面に立つ私を突き飛ばす勢いで、兵たちが横を通り抜けていく。
「エレノアさん、私たちも逃げましょう!」
逃げる兵たちから私をかばいつつ、神様が急かすようにそう言った。
顔は相変わらず険しいまま、兵が建物から外へ出ても、安心した様子はない。
「まずは一度、安全な場所まで避難するべきです。おそらくは建物の中だけではなく、このあたりも安全ではありません」
「ここも……!?」
神様の言葉に、私はぞっと背筋を寒くする。
このあたり――と聞いて見回す裁判所の庭は薄暗い。
建物の影だから、というわけではないのだろう。建物から流れていたと思っていた冷たい空気を、今は庭そのものから感じていた。
――なんでそんなことに……! だって、アマルダが先にいるってことは、グランヴェリテ様もいらっしゃるはずでしょう!?
最高神たるグランヴェリテ様がいるというのに、裁判所はまるで穢れに支配されたかのようなありさまだ。
入り口でこれほど騒いでも、相変わらず人の気配はなく、誰かが助けに来る様子もない。
アマルダたちがいるのであれば、彼女を守る兵たちや、取り巻きの神官だっているはずなのに。
――先に逃げ出されたの? それとも、まだ奥に……!?
「エレノアさん、今はとにかく外へ。神殿兵の方々も一緒に」
いいや、だけど今は考えている余裕はない。
余計な考えを振り払うと、私は促す神様に頷きを返した。
神様の言う通り。なによりも、まずはこの場所から離れるのが先決だ。
「わかりました。ええと、みんなもう外に――」
突き飛ばすように横を抜けていく兵はもういない。
庭に出てざわめく兵を一瞥し、私はたしかめるように背後を振り返る。
暗く冷たい所内に、動く人影は見えない。
一層濃さを増した影の中、私はほっと息を吐き――。
――待って。
その姿を見つけた瞬間、私は反射的に駆け出していた。
向かう先は、裁判所の中。少し奥に入った廊下の端に――尻もちをついたまま動かない影がある。
――――ヨラン!!
「エレノアさん!?」
後ろから、慌てた神様の声がする。
だけど引き留められるよりも早く、私はヨランに駆け寄って彼の腕を掴んでいた。
そのまま、ぐっと彼の腕を引くけれど――動かない。
ヨランから動く様子もなく、私の力では大の戦士を立ち上がらせることもできない。
「逃げるわよ! 立って!!」
急かすように怒鳴りつければ、呆けたヨランの顔が、瞬きながら私を見上げる。
ひとつ、ふたつの瞬きのあとで、彼の目に宿るのは――怒りだ。
ヨランが、怒りを込めて私を睨んでいる。
「お前の――」
ざわりと壁の影が揺れる。
はっとして身を引こうとしても、逃げることができない。
ヨランの腕を引く私の腕を――逆に、ヨランが握り返している。
「お前のせいで、オルガが死んだんだ!!」
「言ってる場合じゃないでしょ! 逃げないと!!」
「お前が、オルガを殺したんだ!!!!」
私の声をかき消して、ヨランが叫ぶ。
泣きだしそうな彼の声に、呼応するように壁の影が蠢き、膨れ上がる。
まるで――まるで、オルガを呑み込んだときのように。
――嘘でしょ!!?
慌てて腕を振るけれど、ヨランの手は離れない。
ぎりぎりと締め上げる兵士の握力に、私は顔をしかめる余裕もない。
眼前に、黒い影が迫っている。
「――――エレノアさん!!」
背後で、悲鳴のような神様の声が聞こえたのは一瞬。
次の瞬間には、濁流のような黒い影が、私の体ごと――私を掴むヨランごと、音も視界もすべてを呑み込んでいた。
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