9話

「か、神様……」


 早々に出鼻を挫かれ、私はすっかり脱力していた。


 目の前には、手招きでもするように開け放たれた大扉。

 重々しい石造りの建物からは、ひやりと冷たい空気が流れる。裁判所内に落ちる影は深く、身震いするような緊張感を与えていた。

 これぞまさしく決戦の地。運命のとき――。


 という状況で、待ったをかけるとはなにごとか。

 踏み出した足をそのまま後ろに下げ、私は渋い顔を隠しもせずに、背後の神様へと振り返る。


「どうされたんです、こんなときに。なにか、忘れものでも――」

「エレノアさん」


 ため息交じりの私の言葉を、しかし思いがけない鋭い声が遮った。

 背後の神様は、私の肩を掴みながらも、視線を私には向けていない。

 息を呑むほど真剣な目は、まっすぐに前を――裁判所の中を見据えている。


「なにか、様子がおかしいです」

「様子……?」


 神様に釣られるように、私もまた裁判所へと視線を戻す。

 薄暗い所内には、前を行く神殿兵が数人。カツンと兵の足音が、静かな所内に響き渡る。

 それ以外に――――物音はない。


 いくら静謐を好む神殿とはいえ、人の足音くらいしそうなものなのに。


 ――……それだけじゃないわ。


 思い返せば、最初から奇妙だった。

 いくら大きな建物とは言え、今日は夏の上天気。見上げれば青い空が見えるのに――どうしてこんなにも、深い影が落ちるのだろう。

 夏だというのに、建物から流れる空気は、どうしてこんなにも冷たいのだろう――。


「…………おい? どうした、なにを立ち止まっている」


 足を止めた私たちに、先頭を歩いていたヨランが振り返る。

 所内の暗い影の中。彼は不愉快そうに顔をしかめ、私たちを睨みつけた。


「ぐずぐずするな。早くしろ!」


 そう言われても、私は動けなかった。

 視線を建物の奥に向けたまま、凍り付いたように立ち尽くす。


 ――なに。


 動かない私たちを、先に所内に入ったオルガや他の神殿兵たちも訝しげに窺い見る。

 だけど、彼らの視線も今の私の目には入らない。


 私の目に映るのは、所内に落ちる影だけだ。

 日差しを拒む冷たい影は、深く暗い――だけではない。


 ――なに、あれ。


 どろり、と。

 重たく――――蠢いている。


 まるで、建物に入った人間を呑み込もうとするかのように。


「おい、いい加減に――――」

「――――後ろ!!!!」


 ヨランの苛立った声を遮り、私は声を張り上げた。

 こちらを向くヨランの背後。先頭を行く彼のすぐ後ろに――黒い影が迫っている!


「逃げて! 奥に行ったらだめ!!」

「なに?」


 私の言葉に、だけどヨランは顔をしかめるだけだ。

 半ば嘲笑めいた表情で肩を竦め、わざとらしいほど大きく首を横に振る。

 他の兵たちも変わらない。呆れるか、戸惑ったような顔をするだけだ。


 ただ――。


「なにを馬鹿な――――」

「ヨラン!!!!」


 オルガだけが、背後を振り返り、飛び出していた。

 自分に向かってくる巨漢のオルガに、ヨランはぎょっと目を見開く。


「オルガ、なにを――」


 戸惑うヨランの胸を、オルガの腕が乱暴に突き飛ばす。

 ヨランの体がよろめき、床に倒れ込んだ――――その直後。


 壁から噴き出した黒い影が、濁流のように一息に、オルガの巨躯を呑み込んだ。

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