34話 ※神様視点

 友人たちを前に笑みを取り戻したエレノアを、彼は一歩離れた場所から見つめていた。

 エレノアの顔に、涙の跡はもう見えない。

 明るい表情の彼女に、彼はかすかに目を細めた。


 目の前にあるのは、きっと美しい光景なのだろう。

 だけど彼の内心は少しだけ複雑だ。


 ――苦々しいものだな。


 ため息を吐く彼の目には、相変わらず人間の醜さが映っている。

 消えない穢れへの嫌悪感は失せず、神である彼の心を曇らせる。


 あるいは、この苦々しさは、の抱く醜さかもしれない。

 自分にはできなかった――エレノアを笑顔に変えた者たちへの嫉妬心に、彼は小さく首を振る。


 羨ましい。妬ましい。

 そう思っていても、笑うエレノアを見てしまえば、浮かんでくるのは微笑みなのだ。


「――アドラシオン」


 その笑みのまま、彼は暗闇に向けて声をかける。

 神気の気配がなくとも、そこにいるのはわかっていた。


「どこまでお前の計算の上なんだ?」


 は――と闇の中から声がする。

 生真面目に戸惑う声の響きは、彼がよく知っている男と同じものだ。

 そのまま黙り込む男に、彼は笑みとは言えない形に口を曲げる。


 まったく、憎らしくて腹立たしい。

 これもきっと、人間らしい感情なのだろう。


「さすがにタイミングが良すぎるだろう。彼女は気にしていないようだが」

「…………」


 彼がエレノアのために駆けつけるのと、リディアーヌたちがエレノアに会いに来るのがちょうど同日、同時刻になる確率はどれくらいだろうか。

 偶然がありえないとは言わない。リディアーヌたちの様子を見れば、彼女たちがタイミングを合わせようなど――わざわざエレノアを不安にさせたまま放っておくことなどしないと、想像がつく。


 だけど彼には、リディアーヌに制止をかけられる存在に心当たりがあった。

 冷徹で、ある意味でどうしようもなく愚直で、目的のために手段を選ばない。

 今も昔も、彼のよく知る男だ。


「…………御身に、人間というものを知っていただきたかったのです」


 長い沈黙の後で、男は観念したように息を吐く。


アマルダ清いものを知った御身に、もう一度エレノア人間を見ていただきたかったのです」


 そのために、男は少しだけリディアーヌの足止めをした。

 完全にリディアーヌを止めなかったのは、彼がエレノアの前に現れなかったときのための保険だろう。

 万が一、彼がエレノアごと人間を見捨てた場合は、リディアーヌたちにエレノアを救わせるつもりだったのだ。


 ――手回しの良いことだ。


 エレノアのことを思えば腹も立つが、男の望みを思えば怒るに怒れない。

 この地に生きる人間すべてを守りたいと願う男にとっては、これがきっと最善の手だった。


 欺き、偽り、誰かを犠牲にし――だけど犠牲にはしきれない。

 男のずるさと甘さに、彼の笑みが苦くなる。


「……まったく。お前は本当に、人間らしくなったな」

「すみません。叱責であれば、あとでいくらでも――――」


 口にしかけた謝罪を、男は不意に途切れさせた。

 闇の中、息を呑む気配がする。


「御身……? もしかして、記憶が……」

「ああ」


 彼は短くうなずくと、そのまま少しの間目を閉じた。

 身の内の穢れは消えていない。だけど同時に、穢れはもう、彼の記憶を塞いではいなかった。


 ――気持ち悪い。


 消えない嫌悪感は、彼自身に向けられたものだ。

 神でありながら、神ならざる感情を持ってしまった矛盾ゆえ。


 手離せば、きっと楽になるだろう。

 神としての記憶を取り戻した彼に、それは難しいことではない。


 ――いや。


 だけど、彼は静かに首を振る。

 嘆息とともに目を開ければ、視界に入るのはエレノアとその友人たちだ。

 神にとっては美しくない、醜く穢れた景色に、だけどやっぱり彼は微笑む。

 この光景を愛おしいと思う、神ならざるもう一つの心を、手離したくないと思うのだ。


「……世話をかけたな。ずいぶんと長い試練になったものだ」


 たぶん、闇の中に隠れた男も、同じことを思っているのだろう。

 そう思うと少し呆れて、少し笑えてくる。

 あのとき、あの瞬間、あの男が神々を裏切ったとき。

 宝石のように人間の娘を抱いた男の気持ちを、今は誰よりも彼自身が理解しているのだから。


「結局こうなるとは。私とお前は、私が思う以上に似た兄弟だったらしい」


 自嘲するようにつぶやけば、闇の中で影が揺れる。

 強い魔力の気配とともに、見慣れた男が姿を現す。


 それは、彼のよく知るかつての神だ。

 燃えるような赤い髪と、冷たくも厳しい硬質な瞳を持つ、愚かしいほど生真面目で、一途で――冷徹にはなりきれない、優しい男。


「――そのお言葉は」


 国を作り上げた二神のうちの一柱。

 弟神アドラシオンが、彼の前にうやうやしく膝をつく。


「俺にとって、なによりの誉め言葉です。――兄上」


 建国神の拝礼を当たり前に受け止めると、彼は暗闇から顔を上げた。

 神聖なる金の瞳が見据えるのは、冷たい牢獄の檻ではなく、人間たちの行く末だ。


 長い長い時の果て。

 この世でもっとも偉大な神は、静かに、穏やかに――どこかぽやんとした緩さで、ようやく見つけた答えを口にした。


「審判を下そう、アドラシオン。――破滅ではなく、罪を見つめさせるために」






(6章終わり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る