30話

 頬を伝う涙を、私はしばらくの間見つめていた。

 指先に触れる熱は、凍てつく神の気配さえも溶かしていくようだ。


 神様は無言のまま、いくつもの涙の筋を作っていく。

 金のまつげを濡らし、ゆっくりと瞬き、また一つ。

 人間と同じ涙がこぼれ落ちる。


 頬を夜の風が撫でる。

 今さらになって、私はその冷たさに気が付いた。


 両手で挟んだ神様の頬はやわらく、冷えた私の手のひらを温める。

 震えるような威圧感は、もう感じない。

 目の前にいるのはきっと、傍にいるとほっとするような、いつもの神様なのだ。


 穏やかな神様の目に、私の姿が映っている。

 目の中で瞬く私自身を見つめ、私は――。


「――――こ」


 私は大きく息を吸うと、全身全霊を込めて、張り詰めていた緊張感を吐き出した。


「怖かったぁあ…………!!」


 目の前に恐怖の原因である神様がいることは、気にしてはいけない。

 というよりも、とても取り繕ってはいられない。

 あまりの怖さに、今さらになって手が震えている。

 心臓も破裂するんじゃないかというほどドキドキしているし、思い出したように冷や汗まで流れている。


 体には、もう力が入らない。

 脱力しきってベッドに沈むと、私はもう一度だけ、たしかめるように神様を見た。


「本当に本当に神様? いつもの神様ですよね?」


 ついでに、触れたままだった頬を摘まんで引っ張ってみる。

 さっきまでの神様には冗談でもできない行為だ。

 ぐにぐにと頬を弄られる神様は大人しい。怒るでもなくされるがままで、ひたすら困惑したように頷いて返す。


「いつもの……? ええ……たぶん、はい」


 そのきょとんとした様子が、まさにいつもの神様だ。

 本当に、本当に元の神様なのだ。


「よ、よか――よかったあ…………」


 つっかえながら口にした声は、自分でも驚くくらいに震えていた。

 目の端がじわりと熱くなる感覚に、私は慌てて唇を噛む。

 安心したら、うっかり泣けてきてしまった。


「エレノアさん……」


 そんな私を、泣かせた張本人である神様が心配そうに窺い見る。

 いかにも申し訳なさそうに、どこかしょんぼりと――自分こそ泣いているのを忘れた様子に、私はぎゅっと眉根を寄せた。

 いったい、誰のせいでこんな思いをしたと思っているのか。


「――――と、いうかですね」


 安心したら、今度は腹が立つのも人間というもの。

 ついつい口から出てきた低い声に、神様がぎょっと身を強張らせる。

 思わず、というように身を引く神様を、しかし逃しはしまい。


 神様の頬を掴む手に力を込めると――私はもう一度大きく息を吸い込んだ。


「そもそも、極端なんですよ、神様は!!」

「…………はい?」


 はい? ではない。

 さすがにこれは、私が怒るのも当然の案件である。


「私がいない間になにがあったのか知りませんけど! そこまでしなくてもいいんですよ! そりゃあ、私だって助かりたいですけど……!!」


 助けよう、と言ってくれる相手に注文を付けるのも失礼な話――とはいえ、さすがに助け方にも限度がある。

 神様からしてみれば、人間の国の一つや二つたいした話ではないかもしれないが、こっちはその国に住む人間なのだ。


 この国には、私の家族がいて、友人たちがいる。私の大切な人たちがいる。

 それを失いたいとは思わない。神様がそれを奪う姿なんて、絶対に見たくない。

 それだけの重みは、たぶん――私みたいな普通の人間には耐えられないのだ。


「もっと、普通でいいんですよ! そんなに思い詰めなくたって、普通に励ましたり、慰めたりしてくだされば、それだけで!」


 私はそこで、一度言葉を切る。

 そのまま、眼前でぽかんと呆ける神様を睨みつけ、荒く息を吐きだした。


 今までだってそう。

 私が落ち込んだとき。つらかったとき。悲しかったとき。

 いつも、私は神様の言葉に慰められていた。

 力尽くでどうにかしなくたっていい。あんな、恐ろしい『神』になんてならなくてもいい。

 ただ、神様が傍にいてくれるなら――。


「それだけで、私は嬉しいんですから……!!」


 力んだ手の間で、神様が瞬く。

 未だ膝をついたまま、私を見上げ、私の顔を瞳に映し込む。


 それから。

 それから――彼はようやく、笑みを浮かべた。

 今まで何度も見てきた、困ったような優しい笑みだ。


「……すみません。かえって、ご心配をおかけしてしまいましたね」

「本当に!」


 迷わず頷けば、神様が優しい笑みを深める。

 冷たい牢に、笑みを含んだ吐息が揺れる。

 不安で不安で仕方がなかった場所で、私もまた、つられるように苦笑した。


「本当に――どうされたんですか。いきなり雰囲気も怖くて、国を壊すなんて言い出して。そのうえ、『人の心を得てしまった』――なんて」


 その顔のまま、私は彼に視線を向ける。

 半ば呆れ交じりに、半ば責めるように神様を見据え、私は肩を竦めてみせる。


 そうして口にするのは、私にとってはごくごく当たり前の事実だ――が。


「最初からずっと、神様って人間らしかったじゃないですか」

「…………私が?」


 思いがけず、神様は驚いたように目を見開く。

 そのままぱちぱちと瞬く姿に、私の方が驚いた。


 ――……無自覚?


 いやまあ、たしかに人間にしては優しすぎるというか、寛容すぎるところはあったけども。

 それ以外はわりと、ごく普通に人間味のある性格をしていたと思う。

 笑うことも多かったし、めったにないけど怒ることもある。

 困り顔はよく見てきたし、今だって、驚きを隠せないのが見てわかる。


 たまに神らしさを感じることもあるけど――それでも、私が見てきた神様は変わらない。

 黒くてまるい姿のころも、今の姿になってからも、わりと感情のわかりやすい『神様』だ。


「……エレノアさんがいたからですよ」


 笑うように息を吐くと、神様は目を細めた。

 見慣れた優しい笑み――とは、少し違う。

 かといって、先ほどまでの畏敬を抱かせるような雰囲気もない。


 それでいて、なんだか妙にぎくりとする表情だ。


 ――ええと……。


 感情がわかりやすい――なんて、思い上がりもはなはだしい。

 今の神様がなにを考えているのかがわからず、私は恐る恐る彼を窺い見る。


「……か、神様?」

「普通。……普通に、慰められたいとおっしゃいましたね?」


 言った。たしかに言った、けど。


 けど、の先がわからないまま、私は無意識に体を引く。

 すっかり揉み続けていた神様の頬からも、慌てて手を離そうとする――が。


 それよりも先に、神様が私の手を取った。

 意外なくらいに強くて、だけど痛いわけではない。

 驚く私を見上げて、彼は膝をついたまま、少しだけ体を持ち上げる。


 ちょうど、ベッドの端に腰かけた私に届く高さ。

 息を止める私と目線を合わせ、彼はかすかに、口の端を持ち上げた。


 ――――あ。


 それは、神様らしくもなく、優しくもない。

 今まで、彼が見せたことのない――男としての笑みだ。


「――エレノアさん」


 影が重なるのは、一瞬。

 触れたのは、たぶん額だ。


 柔らかな感触に、時が止まる。

 頭の理解は追い付かず、体は凍り付いたように動かなかった。


「きっと守って差し上げます。――あなたも、あなたの大切なものも、すべて」


 耳元で聞こえた言葉さえ、頭に入っては来ない。

 はにかんだような神様の表情も、目の前にあるのに見えていない。


 静けさを取り戻した夜の牢獄に、遠く、誰かが近づいてくる足音が聞こえたような気がしたけれど――それどころではない。


 ――え。


 一拍、二拍――三拍くらい遅れて、私は目を瞬かせた。

 額に手を当て、息を吸い――吐き出すと同時に、顔が一気に熱を持つ。

 牢の冷たさも、不安も、恐怖も、今はぜんぶ頭から吹き飛んでいた。


 ――――――――えっ。

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