29話 ※神様視点

 かれにとって、娘の言葉はなんの意味もないものだった。

 彼は公平にして公正な、揺るぎない神の天秤。

 絶対的な価値を量り取る裁定者である。


 人間の感傷など無意味だ。

 どれほど必死に訴えたところで、娘は自分の周りだけしか見えない、利己的な人間であることに変わりない。

 彼が求めているのは――人間たちが示すべきは、神に刃を向けた咎さえも覆すもの。

 罪を赦すに足る、曇りなき輝きだけだった。


 ――気持ち悪い。


 苦く奥歯を噛み、濡れる指先を頬から離す。

 流れ落ちるものを、神は理解できなかった。


 神が人間に抱くのは、博愛と哀れみだけだ。

 神の心は人から遠く、人が触れることは叶わず、神の心が人に向くこともない。


 ――――気持ち、悪い。


 だからこれは、神の心ではありえない。

 神の心は、揺らぐはずがないのだ。


 ならば――この心の軋みは。

 今、頬を伝い落ちる熱の正体は――。


 ――――――――気持ち悪い。


 嫌悪感の中で、最後まで捨てきれなかったもの。

 何百年もの間、ずっと彼とともにあり続けたもの。


 己の心を侵し続けた果て。ついに、神さえも捻じ曲げた、モノ。


 人の、穢れだ。




 ――恨めしい。


 濡れた指先を見つめ、彼は小さく息を呑む。

 体の内にため込んだ呪詛は、今も変わらず恨み言を吐き続けている。


 ――妬ましい。


 誰かと比べ、誰かを羨み、誰かを下に見る。

 淀んで醜い嫉妬と羨望。優越感と嘲笑。溺れるような悪意。


 ――羨ましい。


 平等ではいられない人間の、醜い歪み。

 傲慢で浅ましい、不完全さの現れ。

 人間の抱く、業そのもの。


 ――憎らしい。


 でも、それは――。


 ――――憎らしい。


 すべてを等しく愛する神には知りえない、苛烈さの発露でもある。

 より大切に想うものがあるからこそ、抱くことのできる感情なのだ。


 自分にとって大切な相手のためにだけ向けられる、あまりにも小さく限定的な――だけど切実な、愛の裏返しなのだ。




「――――あ」


 彼は知らず、口からかすれた声を漏らした。

 軋む自身の心が、未だ信じられずに首を振る。


「ああ――――」


 なぜ、受け止めた穢れが限界を超えても、記憶を閉ざし続けて来たのか。

 なぜ、すでに定まっていた神の決断を先延ばしにしたのか。

 なぜ――なぜ、あんな焦燥感を抱いていたのか。


 今の彼には、理解できてしまう。


「私は…………」


 神にとっては矮小な、些末すぎる感情が心を占めている。

 泥のような悪意の中にしか生まれない、哀れな人間たちの哀れな愛。

 かつての彼では気付くことのできなかった、小さな小さな感情が、抱きすぎた穢れの中に揺れている。


 国のため、人々のために犠牲になれない彼女が、彼のためには犠牲になれる。

 その重みを、理解できないじぶんに戻りたくないと思っている。


「――――私は、人の心を得てしまったんですね」


 人間らしい感傷が、頬を伝い、頬に触れるエレノアの指を伝い、ぽとりと地面に落ちていく。


 それは、誰よりも高潔であった神の、失墜の証だった。





 ○




 どうして――と尋ねたとき、あの男は答えを迷わなかった。


『愛する女がいるからです』


 そのためだけに、あの男は人間を背に、剣を手に取った。


『ここには、愛する女が愛しているものがあるのです』


 腐り落ちた大地の上。咎人である人間を守り、ついには彼と対峙した。


『俺は、そのすべてを守りたいんです』


 なんの変哲もない平凡な娘を、宝石のようにいだきながら。


『……どれほど言葉を尽くしても、今のあなたに理解していただくことはできないでしょう。――兄上』


 ――ああ、そう。そうだな。


 あの頃の彼には、どうやったって理解できなかった。


 今の彼は、たぶんあの男と同じことを考えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る