26話 ※神様視点

 すすり泣きの声がする。

 か細い嗚咽の音がする。


 冷たい牢獄のベッドの端。両手で顔を覆い、寄る辺ない子供のように体を丸めて泣く少女を、彼は少しの間、無言で見つめていた。


 体が竦むほどの衝撃がある。やりきれない怒りと、胸の痛みがある。

 駆け寄り、言葉をかけることさえためらうような、深い後悔がある。


 同時に――少女へ向ける彼の視線は、ひどく冷徹だった。


 ――哀れな。


 どろりと、彼女の中で暗闇が揺れる。

 恨み、嘆き、誰かを呪う声がする。


 ――醜い。


 泣き濡れる彼女を、美しいと思えない。

 結局彼女もまた、誰かを憎み、自らを哀れんで泣いているだけ。

 それは、今まで彼が見てきた人間たちと、なにが違うと言うのだろう。


 かれの目には、指を濡らす涙さえ、よどんだ穢れと同じ色に見える。

 目の前にいるのは、身に余る穢れに呑まれるのを待つだけの、どこまでも平凡な人間の娘だ。


 ――…………気持ち悪い。


 彼女もまた、神を穢し、滅びへと向かう人間の一人。神の見つめる、醜い光景の一つ。

 吐き気がする。


「……神様」


 吐き気がするのに。


「はい」


 縋るように彼を呼ぶ娘に、彼は笑みを

 神には不要な偽りの表情を浮かべて、驚く娘の前に立つ。


 ――気持ち悪い。


 暗闇に泣く彼女に、自分だけが味方のようにふるまっている。

 取るに足りない存在だと理解しながら、泣かせたくなかったとうそぶいている。

 慰めるようなふりをする。


 ――気持ち……悪い……。


 胸の中で穢れが蠢いている。

 どろりとした感情が、かれの思考を歪ませる。


 神の決断は終わっている。

 このやり取りは必要がない。


 神の心を侵す穢れを、これ以上抱えている意味がない。

 なのに――なのに、どうして。


「――ねえ、エレノアさん」


 どうしてひざまずく。


「全部、なかったことにしましょうか」


 どうして手を伸ばす。

 どうして、そんな醜いモノに触れようとする。


「記憶を取り戻せば、簡単なんです。きっと私は、『この』私から変わってしまうでしょうけど」


 穢れた娘の頬に触れ、涙を撫で、言葉をかける意味がかれにはわからない。

 ため込んだ穢れによって失われた記憶は、穢れを捨てることで取り返せる。

 穢れによって歪められた思考も感情も、きっと本来の彼のものへと戻るだろう。


 あとは、己の役目を果たすだけ。

 人間たちは、自らが招いた結末を迎えることになる。


 その前に、彼女だけは掬い上げても構わない。

 醜く成り果てた彼を、これまで支えてきたことへの感謝はある。

 彼女を助けることに異論はなく、彼女が望むのであれば、地上を離れる際に共に連れて行ってもいい。


 それで、なにも問題はないはずだろう?


 ――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


 それでも。


 それでも、彼は穢れを呑み、暗闇に揺れる娘の瞳を見る。

 溢れ出しそうな記憶を押さえつけ、口を開く。


 心の中で、『どうして』と自分自身に問いかけながら。


「あなたを苦しめるもの、なにもかも壊してしまいましょうか」


 どうして、すぐにでも消し去らない。

 どうして、彼女に許可を乞う。

 どうして、そうも縋るような声を出す。


 どうして、そんな醜いモノを、宝石を撫でるように触れるのだ。




 その答えは、歪んだかれ自身にもわからない。

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