23話 ※神様視点

 エレノアが捕まった。


 聞いた言葉を、頭の中で繰り返す。

 だけど上手く消化できない。

 ひどく簡潔なこの言葉を、理解できない。


「どういうことですか……?」


 口から出る声は、かすかに震えていた。

 とうてい信じることができず、彼はくしゃりと顔をしかめた。


 そんなはずはない。

 だって、約束したはずだ。


 あの日、エレノアを置いて出て行ったとき。

 アマルダはたしかに、嘘偽りなく彼の頼みを聞き入れた。


「咎があれば私に、とお願いしたはずです。私のことで――私の姿や穢れのことで、エレノアさんが責められることのないように」

「ええ、ちゃんと覚えています」


 もちろん、とアマルダは頷いてみせる。

 瞳は相変わらず澄んでいて、一切の陰りはない。

 胸の前、彼の手を包むように握りしめる姿は、まるで祈るかのようだ。


「でも、ノアちゃんが捕まったのは、『ノアちゃん自身のこと』です。クレイル様のお姿も――クレイル様が生み出してしまった穢れも、あなたの責任ではありません」


 アマルダの手は熱い。

 両手でぎゅっと包み込み、血の気の引いた冷たい彼の手を温める。


 ぬるい指先の感触に、彼は思わず後ずさった。

 彼女がなにを言っているかわからない。


「ノアちゃんのせいで穢れを生まされて、クレイル様が心を痛めていたことは、みんなちゃんとわかっています。罪をかぶる必要はありません。ノアちゃんには、ノアちゃんの責任を取っていただくだけ」


 離れた距離を詰めるようと、アマルダはまた一歩近づいてくる。

 顔に浮かぶ表情は優しい。

 目はまっすぐに見つめたまま、決して彼から逸らさない。


 心の奥底まで覗くような顔をして、彼女は心を溶かすように言葉を吐く。


「ねえ、クレイル様。……もう、自分の責任だなんて思わなくていいんですよ」


「…………あ」


 誘惑にも似たアマルダの声に、彼は小さく息を漏らす。

 無意識に眉をひそめたのは、アマルダがまぶしいからだ。


 何度見ても、アマルダは美しい。誰よりも清らかで、なにがあろうと穢れない。

 一切の偽りを、彼女は口にしていない。


「ああ…………」


 


 穢れの中で輝く微笑みに、彼の表情が歪んでいく。


「…………私……は」


 愚かだった。

 どうしようもなく愚かだったことを、彼はようやく理解する。

 なにもかも、彼の犯した過ちだった。


 アマルダに約束は無意味だ。

 彼女の言葉は、嘘であろうと真実であろうと、なんの価値もない。


 三日前、彼と約束したときのアマルダは本気だった。

 本気で、彼女はエレノアを守るつもりでいた。


 同時に、今のアマルダにも嘘はない。

 語る言葉はすべて彼女にとっての真実で、約束を反故ほごにしたとさえ思っていないのだ。


「私は、なんということを……」


 エレノアに、なんということをしたのだろう。

 どうして、彼女を置いて行ってしまったのだろう。


 約束に偽りがないからと、アマルダに付いて行ってはいけなかった。

 彼女を一人にさせず、傍についてやるべきだった。


 得体の知れない焦燥感など、無視すればよかったのだ。

 そう思っても、もう取り返しはつかない。

 後悔と不安だけが、彼の思考を埋め尽くしていく。


「クレイル様、そんな泣きそうな顔をなさらないで」


 溺れるような後悔の中で、アマルダの声が響く。

 憂いのない、やましさのない顔で、彼女はふっと優しく微笑んだ。


「あなたが悲しむ必要なんてないんですから」


 さすがアマルダ様、と背後から声がする。

 暗闇めいた部屋から様子を見ていた穢れ神官たちの、歓喜の声が響いている。


なんとお優しいたすけて

神の心さえ溶かすとはたすけて

さすがはアマルダ様たすけて


 いくつもの声を背に、アマルダは顔を上げる。

 無数の穢れたちに向け、底なしの輝きを見せつけるかのように。


「笑っていてください。それが聖女である私の、喜びなんですか」

「――やめてください!」


 あまりに悪趣味な光景に、彼はアマルダの言葉を遮って首を振った。

 そのまま、彼自身でも驚くほど荒く、アマルダの手を振り払う。


「エレノアさんは、私を虐げていません」

「クレイル様……?」


 傷ついた顔で瞬くアマルダを、哀れには思えない。

 背後から救いを求める声は止まず、渦を巻く穢れに吐き気がする。


 ――愚かな……。


 自由になった手を握りしめ、彼は奥歯を強く噛む。

 幻想の光に手が届くはずはない。彼女は決して救いにはならない。


 だけどきっと、愚かなのは彼も同じだ。


 ――彼女に、光を見出そうなんて。


 まぶしさに目がくらんだのは、神官も彼も変わりない。

 アマルダの輝きに目を奪われて、ありえないものを探していた。


 人間の可能性を、見つけようとしていたのだ。

 人間に価値がないことなんて、彼はとっくに知っていたはずなのに。


「……どこですか」


 えずくような吐き気は、自分自身への嫌悪感だ。

 取り戻せない後悔を呑み、彼は押し殺した声を出す。


 金の瞳は、真正面からアマルダを捉えていた。

 感情を抑えた視線は、いっそ凪いだように穏やかで――同時に、どこまでも冷たい。


 笑みを浮かべていたアマルダが、ぎくりと肩を強張らせる。

 様子を見ていた神官たちまでもが、畏敬に震えあがっていることに、彼は気が付いていなかった。


「エレノアさんは、どこにいるんですか……!」


 静かな怒りを宿す目が、かつてのかれとよく似た色をしていることにも。

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