22話 ※神様視点

「まあ。本当にどうしたのかしら、クレイル様」


 アマルダはくすくすと笑い続ける。


「なにか、お伝えしたいことでもあるんです? また午後にでも、お部屋にお伺いするつもりだったけれど……それなら、いいわ。神官様たちがいますけれど、中へいらしてくださいな」


 妙案と言いたげに、パンと両手を叩く彼女の背後。

 救いを求める声も、くらい神官たちの視線も、彼女は気が付かない。


「のんびり、お茶を飲みながらお話ししましょう。あっ、もちろんクレイル様にお茶を淹れさせたりなんてしませんよ」


 ね、と言って、アマルダは無邪気に彼へ向けて手を伸ばす。

 彼の手を握ろうと、憂いのない白い指先が触れる――直前。


「……クレイル様?」


 反射的に――逃げるように、彼は腕を引いていた。

 きょとんと首を傾げるアマルダの姿が見える。


「どうされました? ――って、ああ! 私ったら、はしたかなかったですね……! クレイル様といるとなんだかほっとして、つい甘えてしまって……ごめんなさい!」

「……いえ」


 恥じ入るように頬を染めるアマルダに、彼は静かに目を伏せた。

 純真なアマルダと、渦を巻く穢れのちぐはぐさを、今はまっすぐに見ていられない。

 部屋から聞こえる無数の声に眩暈がしそうだった。


「いいえ、お話は結構です。ここを出て行く前に、お世話になった挨拶に来ただけですので」

「出て行く、ですか?」


 強張った彼の声音に、アマルダは不思議そうに首を傾げた。

 思いがけない言葉を聞いた、とでも言いたげに目を瞬かせ――だけどすぐに、その顔が笑みに戻る。

 相手を気遣うような、少し困ったような笑みだ。


「クレイル様、そんな固くならなくてもいいんですよ。ずっとここにいていいって、昨日もお話ししましたでしょう?」

「それは昨日お断りしたはずです。せっかく親切にしてくださったのに申し訳ありませんが」

「申し訳ないなんて!」


 アマルダは驚いたように声を上げると、慌てて彼へと足を踏み出した。

 思わずぎょっとするほど近い距離。

 踏み込んできたアマルダにぎょっとする彼を、青い瞳が上目で見上げてくる。


 その無垢な目に、かすかに涙が滲んでいた。

 小さな手は、先ほどとは打って変わって奥ゆかしい。

 ためらうように彼に伸ばされては、遠慮がちに引っ込められる様子は――まるで、相手から握ってもらうのを待っているかのようだ。


「遠慮なんて必要ありません。クレイル様がいてくださったら、私も嬉しいんです。私はあなたの聖女――」

「遠慮ではありません」


 だけど彼は、アマルダの手を取る気にはなれなかった。

 距離を取るように一歩足を引き、改めてアマルダに顔を向ける。


「ご厚意を無下にするようで心苦しいですが、もともと三日の約束でした。エレノアさんにも無理を言って出てきたんです」


 エレノアの名を口にしながら、彼は知らず眉根を寄せていた。

 アマルダと話をするために、止めるエレノアを置いて出てきた三日前。

 別れ際の、彼女の呆然とした表情が、今も頭に残っている。


 ――エレノアさん。


 きっと怒らせてしまっただろう。

 思う存分、呆れていることだろう。


 それでもエレノアのことだから、呆れながらも待っていてくれているのだろう。


 ――戻ったら、謝らないと。


 得体の知れない焦燥感は、未だ胸の中から消えていない。

『このままでは駄目だ』という気持ちは続いている。


 そうだとしても、彼はあの小さな部屋に戻りたかった。

 この屋敷よりもずっと狭くて、日当たりの悪い部屋の中。不機嫌なエレノアが出迎えてくれるはず――。


「……ノアちゃん?」


 そう信じる彼の顔を、アマルダが覗き込む。


「ノアちゃんのことを気にされて、そんなことを言っていたんですね」


 彼女の顔に浮かぶのは、同情だ。

 これまでも何度か見せてきた哀れみの表情に――今はなぜか、妙にぎくりとする。


「かわいそうなクレイル様。……でも、もう恐れる必要はないわ。あなたを虐げる人はいないんです」


 アマルダの目が、彼の姿を真正面から映し出す。

 揺れる青い瞳には嘘がない。

 どこまでも澄んだ目をして、彼女は柔らかく微笑んだ。


「安心してください、クレイル様」


 そう言いながら、アマルダは背筋を伸ばして胸を張る。

 迷いなく伸ばした手は、今度こそ彼の手を掴んで握りしめた。


 両手で包むように握る彼女の手は、少し熱い。

 熱を持った表情は凛として、わずかな後ろめたさも感じさも見えなかった。


 そのまま、彼女はゆっくりと口を開く。

 悪を正す、正義のように。 


「ノアちゃんは――偽聖女エレノア・クラディールは捕まりました」


 慈愛に満ちた聖母のように、優しく。


「クレイル様。あなた自由になったんです。……ずっとここにいても、もう誰も咎める人はいないんですよ」


 清らかな聖女アマルダの言葉に、頭がくらりとした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る