21話 ※神様視点

 約束の三日がすぎ、別れの挨拶をするためにアマルダの部屋を訪ねた彼は、目の前の光景に息を呑んだ。


 まだ、朝と言える時間帯。屋敷内でも一番上等なアマルダの部屋。

 聞こえるのは神官たちの明るい歓声と、それに応えるアマルダの声だ。


 声だけを聞けば、和やかな空気と言えるのだろう。

 だけど彼の目には、その光景がかすんで見える。


 ――……穢れ?


 部屋を満たすのは、視界さえも覆うほどの穢れだった。

 日当たりの良い部屋のはずなのに、朝の光さえも差し込まない。

 薄暗い、影の落ちた部屋の中で、人間たちだけがなにも気が付かないまま騒いでいる。


「――ああ、クレイル様! おはようございます」


 扉を開けたまま立ち尽くす彼に、アマルダの澄んだ声が呼び掛ける。

 神官たちに囲まれ、無邪気な笑顔を浮かべる彼女の――横。


 渦を巻く穢れに紛れ、なにかが立っている。

 暗く、影の落ちた『それ』を見た瞬間、彼は無意識に足を引いた。


「こんな朝早くに、なにかご用でしょうか。お話なら、またあとで。お茶と一緒にたくさんしましょう? 時間はいっぱいあるんですから」


 目を細めるアマルダの白い手が、『それ』を握りしめている。

 周囲の神官たちは、恭しく『それ』を見上げている。


「クレイル様? 急に黙って、どうされたんですか? ……ああ、もしかして」


 まるで、人の姿をしたものに、そうするように。

 アマルダは隣に立つモノをちらりと見やり、少し恥じらうように握りしめていた手をほどいた。


「もしかして、グランヴェリテ様のことを気にされています? ええと……不安にさせていたなら、ごめんなさい」


 離れた手を胸の前で握り、アマルダは困ったようにはにかんだ。

 気遣うように彼を見つめる目には、わずかな濁りもない。

 歓声を上げる神官を背に、たたずむモノを傍らに、影の落ちた部屋で青い瞳を瞬かせる。


『助けて』


 渦を巻く穢れにも気が付かずに。


「私にとっては、クレイル様もグランヴェリテ様と同じだけ大切なお方です。心配することなんてないんですよ」

『助けて』

「たとえグランヴェリテ様が最高神でも――こんな言い方は好きではないですけど、クレイル様が無能神と呼ばれていても、なにも変わりません」

『助けて』

「私は、お二方の聖女です。比較なんてなさらないで、クレイル様」

『助けて』


 扉の前の彼に歩み寄ろうと、アマルダは歩き出す。

『それ』にしたのと同じように、彼の手を掴もうとでも言うのだろう。

 伸ばされる彼女の白い手に――一切の穢れの移らない指先に、彼は小さく首を振った。


「アマルダさん、あなたは……」


 黒く染まった部屋の中。

 アマルダの傍らにあるモノが蠢いている。

 深い深い影を落としながら揺れている。


 彼にとっては、ひどく懐かしい形をした――それでいて、彼よりもずっと哀れな『それ』が、すがるようにアマルダを追いかける。

 どろりと、重たい穢れを滴らせながら。


「あなたは、それが神に見えているのですね」

『助けて』

「クレイル様?」

『助けて』

「最高神と、呼ぶのですね。その哀れな木偶人形を」


『それ』は魂のない、誰かの器になるためだけの木偶人形。

『見る者の望む姿を見せる』という魔法の残滓も消えかけて、半ば崩れ落ちながら、救いを求める哀れなモノ。


 綻んだ魔法は、すでに本質を隠す力を失っている。

 見よう、と思いさえすれば、誤魔化しようのない真実の姿が見えてしまう。


 人間にも、見えるはずなのだ。

 傍にいれば、気にかければ――少しでも、相手を知ろうとするならば。


「木偶人形って……なにをおっしゃるんですか。変なクレイル様」


 すぐ後ろまで追いかけてきた『それ』を見て、アマルダは苦笑した。

 冗談でも聞いたようにくすくすと笑う彼女の表情には、やはり一切の陰りがない。


 どこまでも澄んでいて、どこまでも清く、どこまでも輝かしい。

 泥のような悪意も、叫ぶような嘆きも、切実な救いの声も、彼女には触れられない。


 ――ああ。


 そうか、と彼はようやく理解した。

 だからこそ、彼女は美しいのだ。


 かつてのエレノアが、指先で触れただけで呑まれかけた穢れ。

 ロザリーが、エリックが、マティアスが――溺れるほどの悪意を抱いた人間たちでさえ、例外なく呑み込まれたモノ。

 神でさえ侵食する暗闇を、彼女は受け取らない。


『それ』に触れた指先は白いまま。

 まとわりつくような人間の感情に、彼女が染まることはない。


「あなたには――」


 アマルダは光だ。それはたしかにそう。

 穢れた人間が、暗闇に堕ちたものが、縋らずにはいられない光。


 夜闇に見る町明かりの幻影のように、洞窟の底で見上げる空のように、眩いもの。

 だけどそれは、手を伸ばしたところで決して届かない。


『助けて』


 悲痛なその声に、耳を貸しはしないのだ。


「……あなたには、彼らの声が聞こえないのですね」


 くしゃりと顔をしかめ、彼はいっそ、哀れむようにつぶやいた。


 彼女はただ、輝くだけの光。

 光が虫を集めるように、穢れを集めるだけのもの。


 どれほど人に囲まれても、彼女はなにも見ず、なにも聞かず、寄り添わない。


 それが、聖女アマルダが清らかでいられる理由なのだ。

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