20話 ※神官視点
アマルダはいつだって、眩しい。
「――アマルダ様! どうしてあの化け物をいつまでも屋敷に残すんですか!」
心優しく慈悲深いアマルダが、罪人たるエレノアにさえ心を砕き、様子を見に行った朝。
屋敷の自室に戻ってきた彼女を出迎えたのは、怒り狂うマティアスの姿だった。
ルフレの聖女だったロザリーはすでに神殿を退去し、アドラシオンの聖女たるリディアーヌは公認の『偽聖女』。
現在の神殿においてはアマルダに次ぐ二番目の聖女でありながら、目の前で喚くマティアスはあまりにも見苦しく、不敬だった。
「おまけに、勝手に作り話まで作って、あの化け物を被害者に仕立て上げるなんて! エレノアに罪をかぶせたところで、あいつが消えないと意味がないのに!!」
「作り話なんて……マティアス様、いったいなにをおっしゃるの?」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らすマティアスに、アマルダは怯えた様子で肩を竦めた。
可憐な彼女の震える姿に、神官たちが我先にと前に出る。
神殿の至宝たる最高神の聖女を守ろうと、彼もまたアマルダを背に胸を張る。
アマルダは光。傷つけることは許されない。
彼女はいつだって可憐に、無邪気に笑っているべきなのだ。
だというのに、神官の背に隠れて怯えるアマルダを、マティアスは脅すように睨みつける。
「とぼけるな! なにが『なにをおっしゃるの』だ! エレノアだけを悪役にするなんて、僕は聞いていないぞ!」
「悪役? 仕立てる? どうされたんです、マティアス様。ノアちゃんがクレイル様にひどいことをしたのも、穢れを生み出したことも、神官様たちが一生懸命調べてわかった事実でしょう?」
マティアスの怒鳴り声に、アマルダは困った顔で首を傾げた。
彼女の声の中には、怯えだけではなく、どこか諭すような響きがある。
青い目は震えながらもマティアスを映し、苦笑じみた形に歪められる。
まるで、聞き分けなない子供を見るような目つきだった。
彼女の中に、疑念の色は一切ない。
それだけ、彼女は自分たちを――神官たちを信頼してくれているのだ。
わずかな、疑いを抱くことさえなく。
――仕方ないんだ。
アマルダの無垢な瞳を横目で見ながら、彼は心の中で小さく吐いた。
エレノア・クラディールの処遇は仕方のないことだった。
神殿や王家が、アマルダの苦労も悩みも知ろうともせずに、最高神の聖女だからというだけで穢れ発生の責任を迫ったのが悪いのだ。
今だって、彼女は十分すぎるほど穢れのことで心を痛めている。
傷つく人々のために日々祈り、涙を流し――これ以上、あの不遜な連中はなにを望むと言うのだろう。
――アマルダ様に笑顔でいていただくためだ。グランヴェリテ様もそう望んでおられるはず。アマルダ様は唯一の最高神の聖女。そこにいるだけで価値がある。
だから――神殿と王家を納得させるために、犯人を作り出す必要があった。
エレノアが犯人ということで、神殿も納得している。
今さらマティアスが不満を言ったところで、覆ることはない。
――だいたい、最高神たるグランヴェリテ様がなにも言っていないのだ。我々が間違っているのなら、今ごろ神罰を受けているはずではないか。
自らが選んだ聖女が間違いを犯すのを、最高神が黙って見ているはずがない。
聖女の過ちを正すため、必ずや助言をくださるはずだ。
だが、最高神からの言葉はなく、彼らに神罰は下っていない。
ならば彼らのしたことは、神に許された行為であるということだ。
神はエレノアが投獄されるのを認めた。神から見ても、彼女は罰されるべき存在だったのだろう。
――そう、そうだ。我々は無実の人間を陥れたわけではない。エレノア・クラディールは本当に元凶だった。思えば、最初から怪しかったではないか。
神に選ばれていない代理聖女で、最初の穢れ騒動にも関わっていて、行方不明となったエリック・セルヴァンの婚約者。
無能神はエレノアのもとで姿を変え、その時期が穢れの発生と重なっている。
改めて考えてみれば、こんな偶然があるとは思えない。
――作り話ではなかった。
たとえ――たとえ最初は作り話であったとしても、彼らは真実を引き当てた。
エレノアが排除され、穢れが失われるのであれば、もはや彼女が捕えられた経緯など些末なことだ。
国には再び平和が戻り、悪は排除され、すべて解決する。
それで終わり。問題なんてなにもない。
なにもないはずなのだ。
「神官様たちが、間違ったことを言うはずがないわ。マティアス様は神官様のことを信じられないとおっしゃるの?」
内心で言い聞かせる彼とは裏腹に、アマルダは大きく胸を張る。
後ろめたさなどあるはずもない。
真っ直ぐに前を向くその姿は凛として、
――やめて。
「みんな、穢れを解決するために一生懸命なのよ。この国全体の危機なのに、誰かを悪役にしたり、嘘を吐く真似なんてしないわ」
迷わず、涙すらも隠さず顔を上げ、
――やめてくれ。
「私は神官様たちのことを信じているわ。ずっと傍で私を支えてくれた、本当に立派な方たちだもの」
疑うことを知らない、絶対の信頼を口にする。
可憐でありながら芯の強さの見える横顔は、あまりにも眩しい。
――やめてくれ!
ほんの、ほんのわずかでも疑ってくれれば。
かすかな違和感を、矛盾を、口にしなくてもいい。
表情に、視線に、声に、少しでも出してくれれば、なにかが変わったかもしれない。
でも、アマルダ・リージュは圧倒的な光だった。
誰よりも清く、明るく輝く。欲望に塗れた神殿の暗闇に決して染まらない。
どろどろの闇底から見た彼女は、あまりにも強く心を掴んでいく。
迷わせる暇もなく、ためらう猶予すら与えず。
彼女はどこまでも穢れない。
たとえ――。
「――ふざけるな! なにが信じている、だ! 都合のいいことばっかり言いやがって!」
薄汚れた醜い悪意を真正面からぶつけられようとも。
「あの化け物を消さないと意味がないんだ! 穢れを払える神なんて、ソワレ様だけでいい! エレノアを排除したって、どうせ他の人間が聖女になるだけだろうが!!」
彼女は怒ることもなく、少し悲しそうに首を振るだけだ。
「マティアス様」
自分をかばう神官たちを割って、アマルダは前へと歩み出た。
顔に浮かべるのは、痛ましいくらいの苦しげな表情だ。
瞳がうるんでいるのは、自分を怒鳴りつけるマティアスさえも哀れんだためだろう。
どこまでも優しい、どこまでも慈悲深い、あまりにも高潔な彼女は――助けて――マティアスを見つめて、静かに口を開いた。
「ごめんなさい、マティアス様。……クレイル様がいなくなっても、穢れを払えるのはソワレ様だけにはならないの」
「…………は?」
呆けたようにマティアスは瞬く。
アマルダの顔に浮かぶ哀れみの表情は変わらない。
ただ静かに――助けて――小さく息を吐く。
「私の神様も、できるもの」
「な――――」
なにか言おうと、マティアスが口を開く。
だが、その言葉が続くことはない。
部屋の中央、アマルダに向かい合ったまま、言葉を吐こうとした口が――そのまま、どろりと溶け落ちる。
「…………?」
ぽたりと床に黒い染みができる。
マティアスの目が、驚愕に見開かれたのは――ほんの一瞬だけ。
すぐにその表情さえも黒く染まり、どろりと重たく溶け落ちる。
足も、腕も、頭さえも溶け、ただの黒い塊となった『それ』に、神官たちは凍りついた。
悲鳴すらも上がらない。誰も、なにが起きたのかわからなかったのだ。
ただアマルダだけが、マティアスだったものを見下ろして、痛ましげに息を吐く。
「穢れを払うことくらい、グランヴェリテ様にはできるの。…………ごめんなさい」
そう言うと、アマルダは視線をちらりと背後に向けた。
彼もつられて視線を追い――そこにいる存在に息を呑む。
今まで部屋にいなかったはずの最高神が、アマルダの視線に応えるように、静かにその場所に佇んでいた。
顔に浮かぶのは、冷たいくらいの無表情。
だけどアマルダと目が合った瞬間に、わずかに笑みの形に変わる。
そのまま、最高神はアマルダを見つめながら歩き出す。
ゆっくりと足を踏み出す――助けて――最高神の大いなる姿に、彼の体が震えていた。
いや、きっと彼だけではない。他の神官たちもまた、最高神の威容に身を震わせていた。
――グランヴェリテ様……! グランヴェリテ様が、最高神がアマルダ様のために!
この国を守護する神々の王が、アマルダの求めに応じて力をふるったのだ。
マティアスの変化は、おそらくは最高神の手に寄るもの。
穢れきったマティアスを本物の穢れに変えたのだろう。
その証拠に、最高神はマティアスの前で足を止める。
薄い笑みのまま蠢くマティアスを見下ろし、ひとつ息を吸い――。
どろり、と。
自らの影の中に、マティアスの穢れを呑み込んだ。
「アマルダ様……グランヴェリテ様……! ああ、奇跡を目の当たりにできるなんて……!」
静まり返った部屋に、感極まった神官の声が響く。
ソワレにしかできない、いや、ソワレさえも苦しみながらしてきたことを、最高神は笑みさえ浮かべて行ったのだ。
彼もまた、体の震えが――助けて――止まらなかった。
最高神を気遣い、手を差し伸べるアマルダのいじらしさに目を細める。
助けて。
アマルダを見つめる最高神に、神への信仰心が深まるのがわかる。
助けて。
眩しい。美しい。どこまでも清らかな、理想の神と聖女の姿。助けて。
部屋に歓声が上がる。
神の加護はここにある。助けて。
助けて。迷うことも、憂うこともなにもない。
アマルダと助けてグランヴェリテ助けてこそ、救いをもたらす助けて存在なのだ助けて。
助けて。
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
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