16話

「…………神……様?」


 涙を隠すのも忘れ、私は顔を上げた。

 夜に落ちる牢獄に明りはない。

 ひたすら冷たく静かな闇の中、だけどたしかに彼の気配がある。


「どうして……? だ、だって神様は、アマルダのところにいるはずで……!」

「出てきてしまいました」


 闇に浮かぶ影が、苦笑するように揺れる。

 あまりにのんびりとした口ぶりに、私は呆気に取られてしまった。


「出てきてしまいました……って」

「それで、エレノアさんを探していました。なかなか見つからなくて、こんな時間になってしまいましたが」


 言いながら、影がゆっくりと動き出す。

 ベッドに腰かける私に近づいているらしい。

 コツンという足音だけが、妙に大きく響いていた。


「こんなところにいたんですね」


 声は相変わらず落ち着いていて――落ち着いていて、それだけだ。

 少し低くて、穏やかで、それ以上のなにもない。

 喜びも、悲しみも、怒りすらも見えない空虚な声が、溶けるように消えていく。


 ――神様……?


「すみません、エレノアさん、気が付かなくて。……あなたを泣かせたくないと思っていたのに」

「……い、いえ」


 コツン、と足音が私の前で止まる。

 影は私の目の前。鉄格子に閉ざされた牢の

 暗闇に浮かぶ金の瞳が、私をじっと見つめている。


「あの、神様……」

「はい?」


 小首を傾げる彼を、私は呆けたように見上げた。

 さらりと揺れる髪の影。瞬きの気配。声も、姿も、神気も本人で間違いない。


「ええと……どうやって、この中に? 外は見張りがいて、鍵もかかっているはずなのに」

「ああ」


 暗い影が、困ったように笑う。

 その仕草だって、何度も見てきた神様そのもの――なのに。


「なんでしょう……入ろうと思ったら、入れちゃいました」


 気の抜けるようなその言葉にさえ、どうしてか肌が粟立つ。

 笑みを浮かべる神様に、体が芯から凍り付く。


「たぶん、私はやろうと思えばできるんです。……本当は、ずっとずっと、そうだったんだと思います」


 柔らかな態度に安心ができない。

 冷たい空気が、私の背筋をぞくりと撫でる。


「記憶を取り戻すことも、姿を変えることも――あなたの苦しませるもの、すべて消してしまうことも」


 恐怖とは――たぶん、少し違う。

 不気味さとか不安とか、そういったものでもない。


 今の彼に抱く感情は、きっと――。


「壊して、なかったことにできるんです。私という存在は、もとはそのためにここに来たのですから」


 畏敬、と呼ぶのだろう。

 敬うべき、ひれ伏すべきむき出しの神の気配に、私はひゅっと息を呑んだ。


 どうして、という疑問も頭には浮かばない。

 圧し潰されるような感覚に、『神とはこのようなものなのだ』と本能が理解する。


 身じろぎさえもできない私を見て、『神様』が目を細めた。


「エレノアさん」


 言いながら、神様は私の前で膝をつく。

 誰もが見上げるべき存在が、私を見上げて恭しく手を伸ばす。


「どうしてあなたばかり、つらい思いをするのでしょうね」


 指先が頬に触れる。

 私の頬を、涙ごと彼の手のひらが包み込む。

 そのまま、彼は小さく一度首を振った。


「どうして私は、あなたを置いて人間を守ろうなんて思ったんでしょうね」


 短く後悔を吐くと、彼は静かに息を吐く。

 再び私に向けた視線は、どこか誘うような色がある。


 膝をつき、私を見上げ、頬を手のひらで包み込み――彼は「ねえ」と柔らかく呼びかけた。


「全部、なかったことにしましょうか?」


 暗闇に、金の瞳が揺れている。

 まっすぐに私を映す目の色に、私は声もないままに魅入られていた。


「記憶を取り戻せば、簡単なんです。きっと私は、『この』私から変わってしまうでしょうけど」


 それでも、と神様は言葉を紡ぐ。

 かすかに口元を歪め、どこまでも優しく――――悪魔みたいに、甘い声で。


「あなたを苦しめるもの、なにもかも壊してしまいましょうか」


 そう囁く彼の表情かおから、私は目を離せなかった。

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