15話

 うそ。


 アマルダの言葉なんて信じたくなかった。

 そんなこと、ありえない。

 姉の選んだ相手に限って、それだけは絶対にない。


 ――お義兄様が、お姉様を捨ててアマルダに求婚している?


 嘘、嘘、嘘に決まっている。

 ありえない。絶対、絶対、ありえない。


 ――でも。


 静けさの満ちる夜の牢獄で、私は顔を上げられずにいた。

 アマルダたちはとっくにいなくなっている。

 あれから、食事を届ける見張りの兵の他には、誰一人として訪ねてこない。


 一人きり、食事にも手を付けないまま考えるのは、アマルダに見せられた手紙のことだ。

 ルヴェリア公爵がアマルダに求婚している――なんてありえないと叫ぶ私に、彼女が差し出した、一通の手紙。


 手紙の印璽いんじは公爵家のものだった。

 書かれている文字も、公爵本人のもので間違いない。

 中に書かれていたのは――。


 ――恋文、だったわ。


 アマルダを気にかけ、様子を知りたがり、返事の手紙を待ちわびる。

 日々の細やかなことまで問いかける文章。神官たちとのちょっとしたやりとりにも嫉妬の見える言葉。穢れが増え、神殿で暮らすアマルダを案じ、どんな小さなことにも力になりたいと伝える文字の数々。


『妻のことは、どうか忘れてくれ。僕は今、君のことしか考えられないんだ』


 ――うそ。


 もう何時間もベッドの端に腰を掛け、私は一人でうつむいていた。

 膝の上で両手を握り、何度も何度も頭の中で否定する。


 アマルダの言うことは嘘。

 リディアーヌも、マリも、ソフィも、面会に来ないなんて嘘。

 なにか、どうしようもない理由があるに決まっている。


 だって、神殿に融通が利くはずのレナルドさえ、今日まで音沙汰がないのだ。

 力になると言ってくれた彼が、黙って見過ごすはずがない。

 みんなが私を見捨てたなんて、絶対に嘘。


「うそ。嘘、嘘、嘘……!」


 口に出し、頭を振って、何度も何度も何度も何度も自分に言い聞かせる。

 アマルダなんて信じられるわけがない。

 いつも調子が良くて、適当なことを言っているだけなのだ。


 ――でも。でも、でも、あの手紙。


 それでも、どんなに言い聞かせてみせても、私は顔を上げられない。

 奮い立たせようと声を出した先から、私自身が否定する。

 虚勢が簡単に剥がれ落ちて行く。


 うつむいた視線の先に、暗い影だけがある。

 高い窓からは、月の明かりさえ覗かない。

 牢獄は暗闇そのものだった。


 ――お姉様。


 アマルダにも負けない姉。

 父に否定されても兄に疎まれても、絶対に折れずに顔を上げ続けた姉。

 涙なんて見せないまま、最後には笑顔で家を出て行った、私の憧れ。


 誰よりも格好良かった姉が、誰よりも可愛かった、夢のような結婚式。

 私の夢が、足元から崩れていく。


「嘘…………」


 こんなとき、姉ならどうしただろう。

 それでも笑っていられるだろうか。

 まだ顔を上げて、負けるもんかと言えるのだろうか。


「嘘に……決まってるのに……」


 嫌な想像が頭から離れない。

 リディアーヌは私に会いたがらない。

 レナルドには見捨てられてしまった。

 マリとソフィは、私の話なんてしたくもない。


 お義兄様は、お姉様を捨ててしまった。

 世界で一番幸せな、あの結婚式さえも嘘だった。


「…………」


 きっとこのまま、誰も私を助けには来ない。

 裁判を迎え、有罪になって――そうしたら、私はどうなるのだろう?


「…………やだぁ……」


 喉の奥から、嗄れたような声が漏れる。

 肌に触れる空気は冷たく、目に映る世界は暗い。

 視界を隠すように両手で覆っても、気休めにはならない。


 指に触れる冷たい雫に、私の顔が歪んでいく。

 恨みも妬みもないまぜに、私の心が黒ずんでいく。


 どろりと、指先から溶け落ちるような心地がした。

 暗闇に落ちるように、私は腰を丸めて息を吐く。

 どこまでも黒い感情が、私の中を占めていた。

 嫌だと思っても、どうやっても止められない。


 ――だって。


 いつものように、歯を食いしばれない。

 悔しいと怒って、ふざけるなと叫んで、無理やりに笑えない。

 目の前が、なにも見えない。


 ――どうやって、立ち直ればいいの。


 ここには誰もいないのに。




『――エレノアさん』


 約束の三日はもう過ぎた。

 婚約を破棄されたとき、私の夢が終わったとき、暗闇に呑まれそうになったとき。


『私は、あなたの光になりたいんです』


 いつも傍にいてくれた神様は、どこにもいないのに。






「――…………神様」


 思わずこぼれ落ちた言葉も、誰にも届くはずがないのに。


 暗い夜の牢獄に、震える声が静かに消えていく――。




 その、直前。




「――――はい」


 幻のような声が、私の耳に届いた。

 懐かしくて、優しくて――どこか場違いなくらいに、おっとりとした声。


「なんでしょう、エレノアさん」



 ……。

 …………。


 はい?

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