52話 ※神様視点
――――上手く。
上手く、笑えていただろうか。
二人きりの部屋の中。すっかり食事も終え、客人を待つ時間。
かすかな吐き気を覚えながら、彼は目を細めた。
向かいに座るエレノアは、彼と視線を合わせようとしない。
緊張に強張り、気恥ずかしそうに頬を染め、なにかをごまかすように取り留めのない話をし続ける。
最近のこと、穢れの原因探しをしていたこと、友人たちのこと。
話すうちに、話題は自然と昨夜の騒動に流れ着いていた。
エレノアの話に相槌を打ちながら、彼は硬い表情を笑みに変える。
頬を緩め、口角を持ち上げ、穏やかに頷く彼は、上手く笑えているだろうか。
――気持ち悪い。
昨夜のことは、彼も記憶にある。
エレノアの危機を知らせに、少女たちが息を切らせてこの部屋に駆けつけてきたのがはじまりだ。
姿の変わった彼を見て、驚く少女たちの姿は忘れられない。
エレノアのために、友人のためにと無心にかけてきた彼女たちの中に宿る――暗い色のことも。
神を得られない少女たちが抱いた、消せない嫉妬の色を覚えている。
――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
神に尽くし、人を導くべき神官の、我先に逃げ惑う姿を覚えている。
守るべきものを前にして、我が身かわいさに剣を捨てた兵を覚えている。
エレノアに話をしろと言いながら、未だ秘密を持つ娘のことを覚えている。
地下の穴から出てきたエレノアの、無垢な信頼だけではない感情に、彼は気付いていた。
――気持ち……悪い……。
触れ、打ち砕き、ときに受け止めた穢れの感触が、未だ鮮明に残っている。
彼の内にある穢れと入り混じり、嘆きの声を上げ続けている。
騒動を乗り越え、歓声を上げる人々の声もまた、彼の記憶に焼き付いている。
夜を蠢く穢れが消え、平穏を取り戻した夜に響く明るい声。
止まない歓声に、彼へ向けられた感謝の念。
人々は心から笑い合い、互いの無事を手を取り合って喜んだ。
美しい光景だった。
同時に、ひどくおぞましくもあった。
どれほどの穢れを砕き、どれほどの穢れを受け止めても、あの場から穢れを消すことができない。
明るい笑みの裏側に、闇よりも暗い人間の醜さが満ちている。
エレノアの中にさえも。
――気持ち悪い、のに。
「……神様?」
「なんでしょう、エレノアさん」
思考に沈み、無言になってしまっていたらしい。
訝しげに呼び掛けるエレノアに、彼はなんでもないような笑みを向けた。
そのまま、まっすぐに彼女の顔を見つめれば、栗色の目が戸惑ったように見開かれる。
ぎくり、と音が聞こえそうなほどに強張り、彼女の頬が見る間に染まっていく。
明らかに自分を意識している、わかりやすい彼女の反応に、笑みをこらえることができない。
――醜い。
彼女の今の表情を、他の誰かが見たことはあるだろうか。
彼女の友人たち、彼女と仲の良い光の子、彼女の婚約者だったエリックさえも、きっと知らない。
――なんて醜い。
疑惑を抱く彼女に告げた言葉は本心だ。
人間の持つ醜い感情を向けられて、彼は嬉しかった。
信頼されていないことを悲しむ以上に、喜びがあった。
彼女はそれだけ、彼のことを考えてくれていたのだ。
疑う分だけ長く、深く、彼女の中に自分がいる。
そのことが、彼の心を満たしていく。
無垢な信頼を向けられるよりも、ずっと強く彼の心を捕らえて、離さない。
――私は、なんて醜い。
気持ち悪いのは、彼自身の変化だ。
本来の在り方から、今の彼が乖離していくのがわかる。
人間たちに紛れ、人間の穢れを受ければ受けるほどに、彼の心は乱れていく。
穢れの許容量は、とっくに超えていた。
判断を下すには十分。
彼はあまりにも、人間の醜さを見せつけられすぎた。
それでもなお、彼は記憶すらも取り戻さないまま、穢れに侵食される心を持て余している。
己がこの地に留まる理由さえ忘れ、穢れの教える感情に揺れている。
――私は。
頬が緩む。
口角が上がる。
笑みが歪む。
愛などと呼ぶには醜すぎる。
これは優越感だ。征服心であり、独占欲であり、おそらくは――。
人間じみた欲望でもある。
入り乱れた醜い感情を呑み、彼は努めて穏やかに目を細めた。
私は、今――。
――上手く、笑えているだろうか?
「――あ、え、ええと。ええと、ですね!」
エレノアの言葉に、彼は我に返った。
まじまじと見つめる彼の視線に、エレノアの顔は耳まで赤く染まっている。
表情は気恥ずかしさに強張り、逃げるように視線をさまよわせていた。
そのまま口にするのは、他愛無い会話の続きだ。
「そういえば、昨日レナルドにちょっと聞いたんです! 神様にも関係のありそうなことで!」
はい、と彼は偽りの笑みで相槌を打つ。
彼女が望む、穏やかで優しい笑みであろうと。
「神官たちが、どうやって自分で穢れを払っていたのかっていう話なんですけど! これができたら、神様たちのご負担も減るんじゃないかって思ってですね!」
勢いよく言い切ると、彼女は大きく息を吸い込んだ。
気を落ちつけようと深呼吸したのだろうが、赤い顔は変わっていない。
彼女はそれに気付いた様子もなく、真面目な顔で口を開く。
「ええと、よその国のやり方を参考にしたみたいなんです。なんでも、この国にいらっしゃらない神様にお祈りするんだとかで」
「この国にいない神、ですか」
意外な言葉に、彼は笑みのまま眉をひそめた。
魔力を込めた祈祷は、魔法の一種だ。
精霊に呼び掛けるのとさほど変わりはない。
光の神に祈れば、眷属である光の精霊が、闇の神に祈れば、闇の精霊が力を貸す。
だが、魔法で穢れを払う話は聞いたことがない。
単純に魔力量が勝っていれば穢れを払うこともできるだろうが、それは魔法うんぬんというよりも単なる力比べである。
人間の祈りを聞き届け、穢れを払える存在など――。
「前に反省文を書いたときに、たしかにちょっと気になっていたことなんですけども。この国にはいらっしゃらなくて、他の多くの国で主神として扱われる神様がいらっしゃるんです。お名前は、たしか――」
一柱しか、思い当たらない。
「エルガトラオ様」
エレノアの言葉に、彼の笑みが凍る。
その名を――知っている。
「地母神の、エルガトラオ様と言ったはずです」
今度こそ上手く笑えない。
懐かしい名に――――忘れていた名に、彼は息を呑んだ。
「…………母上」
口から零れ落ちた言葉は、しかしすぐにかき消された。
誰かが訪ねてきたのだろう。部屋の扉を叩く音がする。
穏やかな時間を破り、荒いノックの音が響き渡る。
彼の記憶の底を呼び覚ますかのように。
(5章終わり)
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