51話 ※聖女視点(マティアス)

 誰かを恨んだことはない。

 誰かを憎み、蔑み、妬んだこともない。

 きっと、腹を立てたこともなかっただろう。


 名門、ベルクール家三男。

 生まれながらに成功を約束された男。

 序列第三位の聖女の座は、彼のために『予約』されたものだった。


 なにもかも手にしていた。

 家柄、美貌、才能、知性。魔力の量さえも、彼は一流と呼ぶにふさわしい。

 すべてを持ち合わせた彼には、人を恨む理由も、妬む必要もない。

 彼の心には常に余裕があり、誰に対しても優しく、親切だった。


 悪意など、知る由もなかった。

 この神殿に来るまでは。


「――僕が」


 マティアスは一人、夜道を駆けていた。

 足取りは危うい。

 手には明かりの一つもなく、頼りない細い月だけが行く先をぼんやりと照らしている。


 魔物騒ぎの喧騒は聞こえない。

 逃げた彼を、誰も追いかけてこない。


 序列第三位。ソワレの聖女であるマティアスに、誰も追い縋ろうとはしなかった。

 みんな、あの化け物を選んだのだ。

 みんな、あいつの言葉なんかに納得したのだ。


「僕が聖女だ」


 一人きりの暗闇に向け、マティアスはか細い声で囁いた。

 走り疲れ、荒い息を吐きながら、何度も何度も繰り返す。


「僕が聖女なんだ。僕はソワレ様の聖女だぞ。僕のおかげで、どれだけ神殿が救われたと思っている」


 聖女がいなければ、ソワレは人間に力を貸すことはできない。

 ソワレの力はマティアスの力だ。

 ソワレの力で救ったものは、マティアスが救ったものだ。


「穢れを払えるのはソワレ様だけなんだ。ずっとそうだったじゃないか。他の神にも、人間にも、レナルドあいつにもできない。そうだろう?」


 マティアスはずっと、神殿のために力を尽くしていた。

 穢れが出たと聞けば、ソワレを連れてどこにでも駆けつけた。

 神官たちはソワレに期待し、縋る他にない。

 彼らはソワレマティアスがいなければ、なにもできなかった。


「誰がなんと言おうと、僕は聖女だ。ソワレ様の聖女になったのは僕だ。誰でもない、あいつじゃない、僕が聖女になったんだ」


 金で買った身分であることは知っている。

 ソワレの視線の先にも気づいていた。

 調べれば、過去のことなんてすぐにわかる。


 気の毒には思う。同情はする。

 でも、そんなのこの神殿では当たり前だ。


 政略結婚となにが違う。

 ままならないことなんて、神殿の内でも外でもいくらでもある。

 ろくでもない、金しかないような男に嫁がされる娘たちに比べれば、ソワレは十分に幸福なはずだ。


 マティアスはちゃんと、ソワレに歩み寄ろうと努めていた。

 神すらないがしろにし、外に恋人を作るような他の聖女たちとは違う。

 たとえ自分の意思で決めたわけではなくとも、聖女として、伴侶として、大切にしようと思っていた。

 マティアスはソワレにとって、優しい王子様だったはずだ。


 だけど彼女が、マティアスに振り返ったことはない。


「穢れを払うためには僕が必要なんだ。僕は求められている。僕は必要な人間なんだ」


 あいつじゃない、とマティアスは嗄れた声を吐き捨てる。

 あいつじゃない、必要なのはマティアスだ。神殿はマティアスを望んでいる。

 ソワレにとってもそう。神殿を救うにはマティアスがなければならない。

 たとえ――たとえ、彼女の目がマティアスに向かなかったとしても。


 穢れを払うのは、それだけは、自分の役目だったはずだ。


「偽物に決まっている。穢れを払えるはずがない。だっておかしいじゃないか。だってあんな神はいなかったじゃないか」


 思い出したくもない。

 迷いない目。圧倒的な神気。穢れを打ち砕く、冷徹な力。

 一瞬だけ――あの代理聖女に触れようとした、一瞬だけ。

 己に向けられた、寒気がするほど無慈悲な目。


 肌で感じた、ソワレを凌ぐほどの神の威光なんて、なにかの間違いに決まっている。


「化け物なんだ。悪神なんだ。そうに決まっている。だって……だってそうじゃなかったら、僕は……僕の役目は――」


 言葉の先は呑みこんだ。

 それだけは、認めるわけにはいかない。

 それだけは、絶対にありえない。


 ありえないなら――結論は一つだ。


「――――あいつらが間違っているんだ」


 低い声が、知らず口からこぼれ落ちる。

 暗闇の中、重たい頭が前を向く。


 足元は見えない。

 ただ深い影だけが満ちている。


「僕が正しいんだ」


 瞳は光を宿さない。

 目の前さえもろくに見えていないのに、進むべき方向はわかっていた。

 迷いない足が土を蹴る。

 妙にぬかるんだ、どろりとした感触があった。


「証明してやる。わからせてやる。僕を――僕を、馬鹿にしやがって……!」


 胸の中に、彼の知らない感情が渦を巻く。

 余裕はない。同情もできない。優しい王子様ではいられない。

 重たい、醜い、吐き気がするほどの感情があふれ出す。


「僕を虚仮にしやがって! 今に見てろ! 僕が優しくしていれば、つけあがりやがって!!」


 頭の奥が黒く染まっていく。

 足は彼自身でも知らず、迷いなく進んでいく。

 彼の住まう、ソワレの屋敷に背を向けて、誘われるように闇を踏み分けていく。


「わからせてやる! どんな手を使ったって!!」


 進む先にあるのは、夜の闇よりもなお濃い暗闇だ。

 ほのかな月明かりさえも掻き消す、その場所には――。


 最高神グランヴェリテの屋敷が、静かにたたずんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る