50話 ※ソワレ視点
「――――どうりで」
大騒動の後始末も終え、すっかり静けさを取り戻した夜の神殿。
聖女や神官たちも各々の寝床に戻り、眠りについたころ。
ランタンの光が一つ、暗い夜道を照らしていた。
暗闇に響く足音は一つ。
聞こえる声は、二つだった。
「やけに大人しいと思ったらこれか。お前がずっと黙ってるなんて、おかしいと思ってたんだよ」
「えへへぇ」
「えへへ、じゃねえよ。動けないなら動けないってさっさと言っておけ」
「んー、なんか、邪魔かなあと思って」
言いながら、小さな影が頭をもたげる。
大きな影の背中の上。力ない体を無防備に預け、彼女はにやーっと笑みを浮かべた。
「それにねえ。気づいてくれると思ってたから」
「ああそうかよ。はいはい」
ぶっきらぼうに言い捨てるのはレナルド。彼に背負われているのはソワレだ。
ソワレはほんの少し前。穴の傍でうずくまっていたところを、レナルドに拾われたばかり。
聖女も他の神官たちもみんな帰ったあと、彼だけがソワレを探して、最後まで残ってくれていたのだ。
「他の連中もお前を探してただろ。返事ぐらいしときゃいいのに」
「んー」
不服そうなレナルドの言葉に、ソワレは曖昧な返事をする。
もちろん、聖女も神官もソワレの不在には気づいていた。
明かりを手に周囲を探していたけれど、闇の中に紛れたソワレを人間が見つけられるはずもない。
そのうち「先に帰ったのだろう」と諦めて、ぽつぽつと去って行ってしまったのだ。
声を上げて、彼らに助けを求めればよかったのかもしれない。
たぶんみんな、ソワレに気を使ってくれただろう。
でも、ソワレは黙っていた。
黙っていても、彼が見つけてくれるとわかっていたからだ。
「……しょうもねえな、ほんとに」
呆れたため息を聞きながら、ソワレは背中で揺られていた。
地面に足を踏みしめる音がする。
呼吸に肌の上下する感触がする。
目を閉じると、心臓の音まで聞こえる気がする。
体を支える大きな腕を思うと、やっぱり黙っていてよかったと思ってしまうのだ。
「どうすんだよ、これから。
「それはレナルドが、自分でやったことでしょー!」
「そもそも、お前が無茶すんのが悪い! 無能神がいなかったらどうなってたかわからねえ――っていうかお前、無能神のこと知ってただろ!」
「知ってたけど!」
興奮して顔を上げれば、背後に目を向けるレナルドと視線が合う。
どうして黙っていたんだ――と言いたげな目に、ソワレは唇を尖らせた。
彼が何者か、本当の名前はなんなのか、知っているけれど、それをソワレが口にすることはできない――いや。
――わたしが言っても、意味がないんだもん。
彼は神からはなにも受け取らない。
彼の判断に、神の行動は意味をなさない。
もどかしくて歯がゆいけれど、これは彼が人間と交わした約束。
この地で生きると決めた人間たちへ、彼が与えた慈悲であり、試練なのだ。
「……言えないってか」
不服そうなレナルドの目に、ソワレはつーんと視線を逸らす。
神は人を騙すための嘘をつけない。
嘘をつけないなら、黙る他にない。
だから、この態度も仕方がないこと――なのに。
「ったく、子供みたいな態度取りやがって」
「子供じゃない!!」
ソワレの事情も知らないで、呆れるレナルドの耳元で、ソワレは頑として叫んだ。
思いがけなかったのか、レナルドの体が驚いたように竦むけれど、知ったことではない。
「うー!」と唸りながらレナルドの肩に爪を立て、ソワレは怒りを口にする。
「わたし、レナルドよりも長く生きてるもん! 背だって、昔はわたしのほうが大きかったし!」
「はいはい。……あーあ、昔はずいぶん年上に見えたんだけどなあ」
十六年も近くにいたからだろう。
噛みつかんばかりのソワレの怒りも、レナルドは慣れた調子で聞き流す。
ソワレの不機嫌には付き合っていられないと言いたいのか、歩きながら軽く抱え直すと、彼は視線を前に向けた。
そのままぽつりと、言葉をこぼす。
「子供扱いされたくなければ、いいかげん無茶は控えてくれよ」
「…………」
夜に溶けそうな静かなその言葉を、今まで何度聞いたことだろう。
ソワレは眉根を寄せたまま、暴れようとした手を引っ込める。
興奮して持ち上げていた体も戻せば、ソワレの小さな体はレナルドの背中にすっぽりと収まってしまった。
自分よりも大きな背中に頭を預け、ソワレは視線だけを上に向けた。
レナルドの頭が見える。
ときおりちらりと、横顔が垣間見える。
ランタンの火に照らされ、前を見据える瞳が見える。
「……好きな人の力になりたいのって、おかしいことかな」
その視線の先を遮りたくない。
穢れを生み続け、間近に迫った審判の日を、少しでも先に延ばしたい。
せめて彼が生きているうちは。
せめて、彼の目が曇らないでいるうちは。
「嬉しくねえんだよ」
爪を立てず、きゅっと肩を掴むソワレに、レナルドは振り返らずに言った。
「大人しく待ってろ。もう二度とこんな無茶苦茶するな。次も助かる保証なんてねえんだから」
暗闇の中に声が響く。
闇の中に生きるソワレに、ぶっきらぼうな声が呼び掛ける。
破滅に向かうソワレを引き留めるように。
穏やかな暗闇を照らすように。
「どこにも行くなよ」
細い月が見下ろしている。
淡い月明かりの他に、二人を見つめるものはなにもない。
風の音と、足音と、噛み殺すような呼吸の音が入り混じる。
二人きり。何度も聞いた約束が、ソワレをこの場所につなぎとめる。
「俺が一番偉くなるまで、絶対に、どこにも行くなよ!」
「…………うん」
切実な言葉に頷くと、ソワレはレナルドの背中に頭を預けた。
ソワレを運ぶ背中は大きくて、力強い。
ほんの十数年前までは、ソワレよりも小さかったなんて嘘みたいだ。
――わたしのほうが、お姉さんだったのに。
いつの間にか追いつかれて、いつの間にか追い越されてしまった。
この先もずっと、彼はソワレを追い抜いていく。
置いていかれるのはソワレの方。どこかに行くのは、いつだって人間たちだ。
いつか――いつか彼だって、ソワレを置いていく日が来る。
ソワレの暗闇に、光のような恋が消えるときが来る。
だからせめて今だけでも、無茶をしてでも彼の力になりたいのは、そんなにおかしいことなのだろうか。
その問いを、口にすることはできなかった。
変わっていく背中を忘れないように、ソワレは指先に力を込める。
「…………子供じゃないもん」
かすかなつぶやきは、闇に溶けて消えていく。
神官たちの宿舎までは、まだ遠い。
夜道を歩く二人だけの時間は、長くて、悲しいくらいに短かった。
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