49話

 一方の私は、少しも当たり前ではない。

 さらりとトレーを持ち、テーブルへと運んでしまう神様の背中を眺める私は、先ほどから微動だにもしていない。


 トレーがなくなっても、手は中空に浮いたまま。

 下ろすどころか、まだトレーを持つような手つきで、時が止まったように凍りついていた。


 ――ええと……。


 あまりにさりげない神様の言葉に、まるで幻聴でも聞いたような気がしてくる。

 神様はいつも通り。さっくり朝食をテーブルに置き、平然と椅子を引いている。


 神様に動揺した様子はない。

 動揺しているのは、どこからどう考えても私だけだった。


 ――だ、だって……!


 誰にでもじゃない、と言ったのだ。

 私に優しくしたい、と言ったのだ。

 幻聴でなければ、たしかにそう言ったのだ。


 ――私に……優しくしたいって……!


 体は凍りついているくせに、頭の中は熱くなる。

 頭どころか顔も熱くて、額に変な汗がにじんでいる。

 喉の奥からうっかり奇声でも出てしまいそうで、私はぐっと唇を噛みしめる。


 頭の奥では、現金な乙女心と現実的な乙女心がひたすらに叫んでいた。


 ――どういう意味……!? そのまま受け取っていいの!? 私だから優しくしたいってこと!? い、いえ、神様のことだから『聖女だから』くらいの意味かも!? そ、その前にそもそも幻聴の可能性が!!


 だって神様はあんなに平然としているのだ。

 さっさと椅子に腰かけて、私に顔を向けて――。


「エレノアさん?」

「ひょあい!」


 立ち尽くす私に、訝しげに呼びかける。

 すっかりぐるぐる考えていた私は、とっさに変な声が出た。

 頬の赤さは誤魔化せたのか、神様は奇声に苦笑しただけで、なんともないように手招きをする。


「そろそろ食事にいたしましょう。今日はこれから、レナルドさんがいらっしゃるというお話だったはずでしたよね? たしか、今後の話し合いをするということで」

「あ、は、はい。その通りです……!」


 冷静な神様の言葉に、私はこくこくと頷いた。

 神様の言うとおり。今日は今後の話し合いをするために、午前のうちにレナルドが訪ねてくる予定となっている。

 話し合いの内容は、もちろん神様の処遇についてだ。

 昨日の一件で神様の姿が知れ渡ってしまった以上、神殿からやいやい言われるのは、さすがの私でも予想がついている。


 ――悪神の話がある以上、神様が疑われるのは間違いないわ。神様自身が否定しても、今の神殿じゃ聞いてくれるかわからないし……。


 ルフレ様やソワレ様が口添えしてくれれば――とは思うけど、神々は基本、人間の問題に直接口を出さないようにしている節がある。

 そもそも神出鬼没で、普段はどこにいるかもわからないのが神様というものだ。

 ルフレ様もずっと神殿にいるわけではないと聞いていたし、あまり期待するわけにもいかないだろう。

 結局、自分たちで解決方法を探すのが一番確実なのだ。


 ――神殿からはいろいろ聞かれるでしょうし、上手く説得できるように、呼び出されたときに話す内容を考えておかないと。


 そういうわけで、どうにか有利に話が進められるように作戦を練ろう――というのが、話し合いの趣旨だった。


『腰の重い連中だし、すぐにどうこうってことにはならないと思うが、早いに越したことはねえ』


 とは、昨夜の別れ際に聞いたレナルドの言葉である。

 神殿からの呼び出しは、早くても今日の午後あたり。悪神と疑われたとしても、決断には時間がかかるだろうという予想だ。

 それでも早いうち――今日の朝のうちに話をするため、わざわざこんな神殿の外れまで来てくれるのだから、感謝をしなければならないだろう。


 ちなみにこの話し合い、リディアーヌも参加してくれる。


『あなたはわたくしのことに首を突っ込んでおきながら、わたくしには首を突っ込むなと言うつもり!?』


 とは、私を締め上げたリディアーヌの言葉である。 


 そういうわけで、今日はかなり忙しい一日になるだろう。

 神様とゆっくりできるのは今のうちだけ。

 今くらいは、のんびりと話をしたいと思うのに――。


「それなら、みなさんが来る前に食事は済ませておきましょう。エレノアさんも、どうぞこちらへ」

「は、はい」


 そう言ったきり、言葉が出てこない。

 言いたいことも話したいこともいろいろあったはずなのに、すべて頭の中から消えてしまった。

 口をつぐみ、なにも言わない私を神様が見つめている。

 その視線が、余計に私を緊張させた。


 ――い、今までは平気だったのに……!


 テーブルに向けて歩く足がぎこちない。

 いつも以上に部屋が狭く感じられて、いつも以上に二人きりを意識する。

 座る椅子は、神様の真正面。

 腰を掛ければ、どうやっても神様と向かい合うことになる。


 ――な、なんでこんなに緊張して……!


 いや、思い当たる節はきっちりとあるのだ。

 昨日の夜。大騒動の中。

 助けに来てくれた神様に抱いた――『なに』になりたいか、の答え。


 ――……神様。


 固い動きでどうにか椅子に座ると、私は神様を窺い見た。

 ようやく席に着いた私を、神様は嬉しそうに見つめている。

 表情は相変わらず。ふやっとしてぽにゃっとして、人の姿をしているのに、溶けそうなくらいにゆるゆるだ。

 もともとの顔立ちの鋭さは、今は面影さえもない。

 私に向けられた、やわらかな微笑みから目が離せない。


 ――じ、自覚したから? 私が意識しているから!?


 なんだかいつもよりも、神様を近く感じてしまう。

 相手は神様だというのに、以前よりも人間らしく感じてしまう。

 姿かたちのせいではない。人の姿に変わったからというだけでもない。

 それよりも、もっと根本的なところが――。


 ――……私が、ただの聖女ではいたくないと思っているから?


 前よりもずっと、近づいている気がする。

 手の届く存在だと、勘違いしてしまいそうなくらいに。




 ……なんて不敬なことを考えていたのが悪かったのだろう。


「あの、エレノアさん……?」


 不意の呼びかけに、私は危うく椅子から落ちかけた。

 いったいどれほどまじまじと神様を見つめてしまっていたのだろうか。

 神様の顔からは笑みが消え、戸惑ったように眉根が寄せられていた。


「……私、なにか変な顔をしていましたか?」

「い、いえ! そんなことは!」


 ありません! と私は慌てて首を横に振る。

 変な顔なんてとんでもない。

 むしろどう考えても、変な顔で神様を見つめていたのは私である。

 

「ですが、先ほどから食事もされず、ずっと黙ってこちらを見ていらして――」

「そ、それは変な意味ではなく! ただ神様に見惚れていただけで――――あ」


 あ。


 と口を滑らせる私の前で、神様が一度瞬いた。

 そのまま、二度、三度。言葉を失くしたように、彼はゆっくりと瞬きを繰り返し――。


 四度目の瞬きと同時に、神様の顔が一気に赤く染まった。


「あ、ええと、そ、そうだったんですね」


 赤い顔でそう言うと、神様はそわそわと視線をさまよわせた。

 口はなにか言いたげに開いたまま、なにも言えずに息を吐く。

 顔に穏やかな笑みは戻らず、恥じるような、困ったような、それでいてはにかんだような――ひたすらに曖昧な、笑みとも言えない表情だけが浮かんでいる。


 対する私は、「あ」の口を閉じることさえできずに、呼吸さえも忘れて固まっていた。

 顔はきっと、神様よりも赤くなっている。

 頬は湯気がでそうなほど熱を持ち、頭の中は真っ白だった。


 ――のんびり、話をしようと思ってたのに。


 頭の底をどれほどひっくり返しても、いつもどんな話をしていたか思い出せない。


 落ち着かない沈黙が満ちる部屋の中。

 互いに一言も言葉を交わせないまま、ただゆっくりと過ぎていく時間だけを感じていた。

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