46話

 リディの手は加減を知らない。

 その細い体のどこにそんな力があるのか、私の襟首を両手で掴むと、きゅっと容赦なく締め上げる。

 私の首もまた、きゅっと絞められる。

 そのままがくがくと揺さぶられれば、もう目の前さえもろくに見えなかった。


「エレノア! あなた馬鹿だわ! 大馬鹿者よ!!」

「り、リディ…………」


 なにか言いたいけれど、口から出るのはか細い声だけだ。

 揺れる視界から見えるのは、せいぜい遠くの星々くらいだろう。


 息苦しさと揺れの中、だんだんとリディアーヌの声も遠くなっていく。

 星の瞬きだけが、やけにゆっくりと感じられた。

 ひとつひとつの瞬きを数えながら、私は内心で嘆息する。


 ああ、星がきれいだなあ――――。


「って! 待った待ったリディアーヌ!」

「エレノアがヤバい目してるって!」


 ――――――はっ!


 と、ヤバい目をしていた私は、すんでのところで我に返った。

 首元を絞める力がふっと消え、よろりと一歩足を引く。


 ――あ、危なかったわ……!


 きれいだなあ――どころか、危うく私が星になるところだった。

 なにか見えてはいけないものまで見えてしまったような気もしたけれど、それはそれとして。


 どうにか目の焦点が戻り、視界の定まった私が見たのは、噛みつくようなリディアーヌと――それを背後から必死に押さえるマリとソフィだ。

 二人がかりでリディアーヌの腕を押さえ、どうにか私から引き離そうとしているものの、しかしリディアーヌは止まらない。

 なおも私に掴みかかろうと腕を伸ばしつつ、彼女は吠えるように叫ぶ。


「マリ、ソフィ、離しなさい! さっきから、どうしてわたくしを止めようとするの!!」

「どうしてって、こうなると思ったから止めてんのよ!!」

「せっかくいい感じにまとまったのに、さすがに空気が読めてないって!!」


 暴れるリディアーヌに、マリは青ざめ、ソフィは半泣きだ。

 しかも『さっきから』と言うあたり――もしかして、ずっとリディアーヌはこんな状態で、二人がなだめてくれていたのだろうか。


 ――どうりで……マティアスのいたときに姿が見えないと……!


 なるほど――なんて納得している場合ではない。

 目の前では、リディアーヌが今にも二人を振り払おうともがいている。


「空気なんて知ったことじゃないわ! エレノア!!」


 噛みつくような声に、私はぎくりと身を強張らせる。

 普段のツンと澄ました態度も忘れ、見たこともないほどの怒りを滲ませるリディアーヌは、目の前に立っているだけでも震えるほどに怖かった。

 思わず足を引き、そのまま逃げだしてしまいたくなる――けど。


「この馬鹿、大馬鹿! あなた、本当に馬鹿よ!」


 私を映す赤い瞳に、逃げることはできなかった。

 彼女の視線は、一度も私から逸れることはない。

 射貫くようにまっすぐ私を見据え、彼女は喉の奥から声を張り上げる。


「どうして、クレイル様のことをわたくしに黙っていたの!!」


 耳が痺れるほどの声に、私は竦んだように動けなかった。

 リディアーヌから目を離すこともできず、ただ両手だけを握りしめる。


 ――……当たり前だわ。


 リディアーヌが怒るのは当然だ。

 彼女の無実を晴らすため、犯人探しをすると言いながら、私はずっと隠し事をし続けていたのだ。


 ――迷っていないで、話しておくべきだったわ。ずっと話す機会はあったはずなのに。


「…………ごめん」


 ぽとりと口から声が漏れる。

 今さら後悔しても遅い。謝ったところで、やったことが消えるわけではない。

 わかりきった事実が重たかった。


「リディの無実を証明するって言ったのに、裏切るような真似をしたわ。みんな一生懸命になってくれたのに、私は神様のことを言えなくて……」


 神様が本当に穢れの元凶かどうかはわからないけれど、少なくともむやみに探し回るよりはずっと、彼の存在は手掛かりにはなっただろう。

 それなのに、私はずっと黙っていた。

 彼が犯人として疑われることが怖かったから――だけではない。

『彼を疑う』という行為そのものに、私は目を背けようとしていたのだ。


 そのせいで、もしかしたらリディアーヌが神殿から追い出されてしまったかもしれないのに。


「……なにを言われても仕方ないわ。本当に、ごめんなさい」


 それ以上はなにも言えず、私は唇を噛む。

 私を見据えるリディアーヌの視線は、わずかも揺らがない。

 私を捕まえようと、一歩大きく足を踏み出した。


「い、いや、リディアーヌ! 仕方ないって! これ、私が同じ立場でも言えないから!」

「この状況で神様が姿を見せたら、私も黙っちゃうって! それでエレノアも悩んでたっぽいじゃない!?」


 リディアーヌの背後では、マリとソフィが慌てて引き留める腕に力を込める。

 どうにか落ち着かせようとしてくれているけれど、リディアーヌの顔は険しいままだ。

 奥歯を噛み、彼女の方こそ苦しげに眉根を寄せ――。


「リディアーヌからすれば、そりゃ証拠を隠されたみたいなものだし、腹立つのもわかるけど――」

「そんなこと、どうでもいいのよ!」


 マリの言葉を遮って、大きくかぶりを振った。


「どうしてなにも言わなかったのよ! わたくしには、話をしろなんて言っておいて!」


 黒い髪が揺れる。

 瞬く赤い瞳は、それこそ星のようだ。


 ランタンの火を反射して、燃えるようにきらめている。

 その目の端に、かすかな涙を滲ませながら。


「どうしてあなたは、わたくしには相談してくれなかったのよ!!」


 ――リディ。


 潤んだ目の色に息を呑む。

 激情に我を忘れ、公爵家の令嬢らしくもなく表情を歪めるリディアーヌに、目を奪われたのは――ほんの一瞬。


 次の瞬間には、リディアーヌはマリとソフィを振り払っていた。

 地面に倒れる二人の姿が、やけにゆっくりと感じられる。

 こちらへ伸びてくるリディアーヌの手が、視界一杯に広がる。


 そのまま襟首を掴まれるのと、勢い余った体当たりに、体がぐらりと傾いたのは同時だった。

 きゅっと首元を絞められながら倒れる私の目に、リディの背後に広がる星々が、奇妙なくらい鮮明に見えた。


エレノアバカ――――!?」

エレノアアホ――――!?」

「エレノアさん――!?」

「エレノアの、馬鹿――――!!!!」


 四者四様。ついでにレナルドの「うるせえぞクソガキども!」という声も合わせて、五者五様。

 夜に響く叫び声が、なんだか妙に遠く響く。

 背中から地面に倒れるまでの、長い数秒間。私は先ほどよりもさらに鮮明に、『死』の予感を抱きつつ、空を見上げていた。


 ――ああ。


 星がきれいだなあ――――。

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