44話

「レナルド……!?」


 割り込んできた手の持ち主に、私は目を見開いた。

 ランタンの火に照らされ、巨漢を揺らすのは、私より遅れて地下から上がってきたレナルドだ。


「やりすぎですよ、マティアス様」


 彼はそう言うと、ぐいとマティアスを引っ張って私から引き離す。

 それと同時に、私の方も背後から肩を引かれた。

 思わずよろめく私を受け止めるのは、眉根を寄せた神様だ。


「エレノアさん、大丈夫ですか?」

「あ、はい。私はなんとも」


 危うく首を絞められかけ、『なんともない』というのもおかしな話だけど、幸い傷を負ったわけではない。

 せいぜい驚いて、肝が冷えたくらいだろう。

 大丈夫だと首を振る私に、神様はようやく険しい表情を緩めて息を吐く。


「よかった」


 心底ほっとしたように目を細める神様に、私もなぜだかほっとした。

 背筋の凍る悪寒が消え、体から力が抜けそうになる――が。


「――レナルド君! どうして君が邪魔をするんだ!」


 まだ安心していい状況ではない。

 レナルドに腕を掴まれたまま、マティアスがこちらに指を突きつけている。


「これは神殿のためだ! 君たちのためでもあるんだぞ!!」

「神殿のためかどうかは、あんたが判断することじゃないですよ」

「だったらソワレ様のためだ! ソワレ様の名誉を守るためなんだ!!」


 ソワレ様、の言葉にレナルドが眉をひそめる。

 だけどマティアスは、レナルドの様子には見向きもしない。

 相変わらず憎々しげに私を睨み、レナルドを振り払おうともがきながら声を張り上げる。


「あいつはソワレ様を貶めようとしたんだ! ソワレ様の座を奪おうとしたんだ! ソワレ様のしてきたことを馬鹿にしたんだ!!」

「そんなことしてないわ! ソワレ様は――」

「黙れ! 悪神の聖女が!!」


 言い返そうとする私の言葉を、マティアスは最後まで聞きもしない。

 私がひとこと言う間も与えず、甲高い声を吐き続ける。


「ソワレ様にしかできないはずなんだ! 悪神に決まっているんだ! あいつはいてはいけないんだ!!」

「…………マティアス様」

「あいつが穢れの元凶だ! あいつがソワレ様の言っていた悪神だ! あいつを消すのが、ソワレ様のためだっていうのに!!」

「おい、マティアス様よ」


 レナルドの声さえも、マティアスの耳には入らない。

 ただ無我夢中でもがき、涙目で叫び、子供のように首を振る。


「それを邪魔するつもりか! ソワレ様の言葉を信じないのか! ソワレ様の邪魔をするつもりか!!」

「…………おい」

「やっぱり!」


 その、顔が。

 首を振る彼の顔が、一瞬だけちらりと見える。

 ランタンの火に揺れ、影の落ちた彼の表情に、私はぎくりとした。


 ――…………笑っている?


 私を睨んでいるはずの目は、弓なりに曲がっている。

 口元はうっすらと弧を描き、頬がひくりと痙攣する。


 ひどく歪んだ――それでいて、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、彼は大きく口を開いた。


「やっぱり、君もしょせんはその程度なんだな! ソワレ様を本当に信じて、本気で力になれるのは、僕だけだ!」

「――――マティアス様よお」

「僕だけが、本当の聖女なんだ! 僕だけはソワレ様を信じ続けるぞ!!」


 だって――。

 冷たい夜の空の下。彼はそう言って、半狂乱のままに笑いだす。


「ソワレ様が! あいつを! あの化け物を悪神と言ったんだから!!」

「――――言ってねえんだよ!!」


 その笑みを、レナルドの一喝がかき消した。

 掴んでいた腕を離し、代わりに襟ぐりをひねり上げると、彼はマティアスに顔を寄せる。


 眼前に迫った男の顔に、マティアスは笑みのまま凍り付いた。

 目を見開いたまま、口から出るのは情けない悲鳴だ。


「ひ、ひいっ……!?」

「ソワレは、が悪神に堕ちたと言ったんだ! あの男が弱い神に見えんのか!!」


 レナルドは言いながら、太い腕に力をこめた。

 力んだ手に血管が浮くと同時に、マティアスの細い体が持ち上がる。


 それでも、レナルドが手の力を緩める気配はない。

 つま先で立ち、震えるマティアスを睨んだまま、彼は深く息を吸い込んだ。


「聖女が、てめえの神の言葉を間違えるな!!」


 しん、と周囲が静まり返る。

 レナルドの怒声だけが耳鳴りのように残るだけで、声を上げる者は誰もいない。

 当事者であるはずの私さえ、口をつぐんだまま立ち尽くしていた。


 見たこともないレナルドの怒りと気迫に、周囲が唖然とする中――。


「――――ぼ」


 沈黙を破ったのは、震えるマティアスの声だった。

 どうにかレナルドの手から離れると、彼はどさりと地面に落ちて尻もちをつき、涙目で再び首を振る。


「僕に、こんなことをしていいと思っているのか! 僕を誰だと思っている! ベルクール家の人間だぞ!」


 震えながら持ち上げた指の先が向かうのは、私ではなくレナルドだ。

 青ざめた顔に怯えの色を隠しもせず、彼は消え入りそうなほど細い声で、どうにか糾弾の言葉を吐く。


「し、神殿は僕の味方だ! 僕に逆らえば、たかが神官の一人、潰すくらいわけもないんだ! お、お前なんて今度こそ、この神殿にいられなくしてやるぞ!!」


 裏返ったような甲高い声に、レナルドは静かに息を吐いた。

 かすかに首を振る彼の感情は読めない。

 いっそ無感情にさえ見える表情で、彼は座り込むマティアスを見下ろした。


「……いいぜ、やってみろよ」


 そのまま彼は、一歩足を踏み出す。

 近づくレナルドの影に、マティアスは体を強張らせた。


「い、いいのか!? 出世できなくなるんだぞ! 神官でいられなくなるんだぞ!?」

「だからどうした」

「そ、ソワレ様のために出世を目指していたんだろう!? あんな化け物のために、これまでをふいにするつもりなのか!?」

「それがどうしたって言ってんだよ」


 ひ、とマティアスの喉から悲鳴が漏れる。

 説得の言葉を探しているのか、彼は視線をさまよわせるが、続く言葉は出ないらしい。

 陸に上がった魚のように、ぱくぱくと口を開閉するだけだ。


 声のないマティアスを見据えたまま、レナルドはさらに一歩足を進めた。


「潰したければ潰せばいい。こっちも同じことをするだけだ」

「ひ……!?」

ベルクール家てめえらが金でソワレを買ったこと、俺が知らないと思うなよ」

「ひいっ」


 マティアスが後ずさる。

 レナルドは足を止めない。

 そのまま距離を詰め、マティアスの前にしゃがみ込むと――。


「ガキだったころと同じつもりでいるな。――――たかが聖女の一人を潰すくらい、こっちだってわけがねえんだよ」


 静かで、だけど重たい声でささやいた。


「――――ひ」


 マティアスの瞳が揺れる。

 縋りつこうと周囲を見回し、言葉を探して口を開き、逃げるように足を引く。

 だけど、彼の救いになるものは見つからなかったのだろう。

 彼に向かう無数の目に、冷たい無言に、突き放すような空気に――青ざめた顔が、くしゃりと恐怖の形に歪んだとき。


「ひいいいいいいいいいいいい!!!!」


 彼は喉がれるほどの悲鳴を上げながら立ち上がると、そのまま身をひるがえし、よろめきながら走り去っていった。

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