40話

 おろしてもらった縄梯子を上って、どうにかこうにか地上へ這い出た私は、思いがけない大歓声に迎えられた。


 周囲を取り囲むのは、無数のランタンの明かりだ。

 ランタンを手にした神官や兵たちが、私たちの無事を見て安堵と喜びの声を上げる。


 だけど、よくよく見れば、地下にいた私たちよりも彼らの方がボロボロだ。

 ランタンに照らされた地面には、真新しい穢れの痕跡がいくつも目に入る。


 視界の端には、穢れに呑まれかけたのか、服を黒く染めた神官がいる。

 剣を失くしたのか、鞘だけしか持たない兵がいる。

 互いに手を取り合って喜びあう彼らは、まるで窮地を共に乗り越えて来たかのようだ。


 ――いえ。


 きっと、本当に乗り越えてきたのだろう。

 私たちが地下にいる間、ずっと地上からは騒ぎ声が聞こえ続けていたのだ。


 新しい穢れが出たのか、あるいはまた魔物が出たのかはわからない。

 なんにしても、地下に落ちた私たちを助ける余裕もなく、地上の彼らも危機に瀕して――。

 そうして今、彼らは私たちが無事でいることを喜んでくれている。


「…………」


 なんだか不思議な心地だった。

『神官』なんてみんな同じ。誰も彼も、私を『無能神の聖女』と馬鹿にするだけ。

 顔だってたいして違いないように見えていたのに――。


 今はそれぞれ、別の顔に見える。

 違う顔で、喜んで、安堵して、笑い合っている。


 ――同じじゃないんだわ。


 彼らには一人一人、思うことがある。

 悩むことがあって、目指す先があって、喜ぶものがある。

 みんな、一人の人間なのだ。

 レナルドがそうだったように。


 ――って、そう! レナルドとソワレ様は!?


 体が重いからということで、私を先に上らせたのはいいものの、レナルドはまだ地上に上がってきていない。

 まさか重すぎて、縄梯子が千切れたのでは――と、とんでもなく失礼な想像をしながら、慌てて背後にある穴に体を向けたときだ。


「あっ」


 と思ったときにはもう遅い。

 長らく地下にいたせいか、それとも安心したからか、上手く体のバランスが取れない。

 振り向いた拍子に体が傾き――穴から出てくるレナルドの巨体を見たのを最後に、私はべちゃりと地面に倒れてしまった。


「エレノアさん、大丈夫ですか!?」


 膝から盛大に崩れ落ちた私に、傍にいた神様がぎょっと振り返る。

 心配そうな彼を見上げながら、私はどうにか両手をついて顔を上げた。


「だ、大丈夫です……」

「ずっと暗い場所に閉じ込められていて、お疲れだったでしょう。無理をなさらないでください」


 渋い顔でそう言うと、神様は腰をかがめて手を差し出した。

 私は迷いなくその手を取ろうとして――。


「エレノアさん?」


 直前で、一度手を引っ込める。

 助けてもらっておいて申し訳ないけれど――その前にどうしても、確認しておきたいことがあるのだ。


「ええと、神様って…………」


 言いにくさに口ごもり、言っても良いものかと視線をさまよわせ、迷う口が言葉を呑み込もうとして――。


 ――『まずは、話をするのが先』でしょう!


 ためらう心を叱咤すると、私は覚悟を決めて口を開いた。


「悪神に堕ちていたりしていませんか!」

「はい?」

「誰かを傷つけようとか、神殿を穢れ塗れにしようとか、悪いことを考えていたりとか、していませんか!?」


 一息に言い切ると、私はおそるおそる顔を上げた。

 肯定されるのは怖かった。

 それと同じだけ、『疑ったこと』に失望されるのも怖かった。

 聖女としては失格。見捨てられても仕方がない。


 ――で、でも、後悔は……!


 していないと言えば嘘になる。

 嘘になるけど、聞かずにもやもやしたまま彼の手を取る方が、もっと後悔するのはわかりきっていた。

 私は宣告を待つように、固い表情で神様を見上げ――。


「……私が、悪神に?」


 相変わらず小首を傾げたまま、ぽやんと瞬く神様に、私の方こそ瞬いた。


「堕ちているつもりはありませんが……。すみません、なにか不安にさせてしまっていましたか?」


 おまけに、逆に謝られてしまう。

 申し訳なさそうに眉尻を下げる神様に、私は張り詰めていた空気が抜けるように、体中から力が抜けてしまった。


 ――嘘をついているかもしれないわ。


 悪意を持たない神々は、人を騙さない。

 だけど、悪神であればその限りではないはずだ。

 戸惑うふりをして、ぽやぽやのように見えて、実はそれすらも演技だった――なんて可能性は、どうやっても否定しきれない。


 でも、と私は内心でつぶやく。

 嘘かもしれない。、私は神様の言葉を信じたい。

 疑問を切り捨てるのではなくて、悩んだ末の『選択』として、信じることを選びたい。


「……神様」


 私は大きく息を吐くと、しゅんとした神様を見上げた。


「ええと、たくさん話したいことはあるんですけど」


 たとえ悪神でなくとも、神殿に増えた穢れと神様が無関係だと決まったわけではない。

 神様の変化も、失くした記憶も、未だ謎のままだ――けど。


 それはそれ。

 今は神様の言葉で十分だ。

 私はひっこめた手をもう一度伸ばし、今度は迷わず、差し出された神様の手に重ねた。


「……ありがとうございます。助けに来てくださると思わなかったから、びっくりしました」

「助けに行きますよ」


 神様は目を細めると、私の手を握りしめた。

 その思いがけない強い力にぎくりとする。

 男性にしてはなめらかで女性的なのに、たしかに女性とは違う大きな手に、私は今さら息を呑んだ。


「エレノアさんが危険なときには、必ず助けに行きますよ」


 立ち上がった私に向け、神様が柔らかな笑みを浮かべる。

 真夜中なのに、真昼のように鮮やかなその表情に、私は返事をすることができなかった。


 ――あ、あれ。


 自分で手を重ねられたのが信じられない。

 ほんのりと冷たい神様の体温に、私の手ばかりが熱を持つ。

 一瞬どころではなく――ドキッとしている。


 ――ま、待て待て、待って!


 自分自身に言い聞かせても、熱が上がるのが止められない。

 頭の奥まで熱くなったとき、私は地下で考えていたことを思い出してしまった。


 ――神様の力になりたいのは、私が聖女だからでも、相手が神様だからでもない。


 それなら――――。


 私は神様の、『なに』になりたいの?


 ――……え。


 頭に浮かぶのは、『光』なんて抽象的なものよりも、もっと具体的な関係だ。

 人間が神様に抱くには、ちょっと分不相応な感情だ。

 エリックにも抱いたことのない、この感情は――。


 ――ええええええええええ!?


 茹で上がったように赤くなる私を見て、神様が戸惑ったように瞬いた。


「エレノアさん?」

「あ、い、いえ! いえいえ! なんでもないです!!」


 私は大慌てで首を振ると熱を持つ頬を思いきり叩いた。

 それから、誤魔化すようにこう叫ぶ。


「そ、それより! それよりも、私がいない間になにがあったんですか!? なんだか、みんなボロボロですけど!!」


 そのくせ、なぜだかみんな表情は明るい。

 神様に向ける視線も、親しげ――というより、敬意がこもっているように見える。

『無能神』と蔑まれていた神様を思えば嬉しいけれど、さすがに急すぎて混乱してしまう。


 いったいどうしたのかと尋ねれば、神様はなんてことないように頷いた。


「ああ、それは――――」

「そんなもの、決まっている!」


 だけど、神様が言いかけた言葉は、甲高い声に遮られた。

 歓声の響く中には不釣り合いな、妙に必死なその声に、私も神様も、集まっていた神官や兵たちも振り返る。


 周囲の視線を一身に集めながら、『彼』は血走った目で神様を睨みつけた。


「その化け物が! そいつが、を陥れたんだ!!」

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