39話

 顔を上に向けたまま、私は凍り付いた。

 みちりとふさがれた穴からは、外の声は聞こえない。

 一切の光の消えた闇の中では、足元さえもあいまいだ。


 ただ、穴をふさぐ『もの』の姿だけが、鮮明に浮かび上がっている。


 ――穢れ……!


 暗闇に浮かび上がるのは、闇よりもなお暗い色。

 光もないのに、光沢めいた体がぬらりと揺れる。

 空気の流れの途絶えた地下に、穢れの異臭が満ちていく。


 おののく私の目の前で、穢れは小さく身震いをした。

 狭い穴を無理に通り抜けようとでも言うのだろうか。

 天井を軋ませながら、重たげな体が地下に押し込まれてゆく。


「――おい! そこを離れろ!!」


 呆けていた私の耳に、レナルドの叫び声が響く。

 はっと我に返り、私は慌てて地面に手をついた。

 どうにか身を起こし、離れようとするけれど――。


「きゃっ!」

「す、すみませんソワレ様!!」


 月明かりすらない暗闇の中では、立ち上がることさえおぼつかない。

 近くにいたソワレ様にぶつかって、彼女を巻き込み転んでしまう。


 ――お、起き上がらないと……!


 私の下敷きになって、ソワレ様がもがいている。

 急いでどかなければと、尻もちをついたまま顔を上げたときだ。


 ――――あ。


 どろりと蠢く穢れが、鼻先にあることに気が付いた。

 上を向く私の視界を、穢れが埋め尽くしている。


 ――間に合わな。


 天井の穴を押し広げながら、重たい穢れが地下に落ちてくる。

 最悪の予感に、私は息を呑み、呼吸を止め――。


 ――いえ。


 そこでようやく、気が付いた。

 入り口をふさがれ、完全に閉ざされた暗闇にいてもわかる。

 光差すような、まばゆい『彼』の気配――――神気に。


「か――――」


 口を開き、声を出しかけ――私は反射的に、続く言葉を呑み込んだ。

 頭をよぎるのは、今まで何度も抱いてきた疑惑だ。


 ――いいの?


 


 ――神様を疑っている聖女わたしが、彼を呼んでもいいの?


 そう――つまりはそういうこと。

 悩んでいたのは、きっと、神様が穢れの原因だろうかということでも、悪神かどうかでもない。

 彼が間違っていると確信できたのなら、私は迷いなく止めに行けるのだ。


 ためらっていたのは、それ以前。彼を『疑う』ことそのもの。

 聖女だから、優しい方だから、そんなはずはないからと言い訳して逃げてきた行為。

 相手を『信じない』という、悪意にも似た選択を取ることだ。

 その行為への、後ろめたさなのだ。


 ――神様を呼んでも。


 私はもう一度、頭の中で繰り返す。

 優しくて、親切で、ぽやんとして、何度も私を助けてくれた神様を疑っても――。


 ――――いいのよ!!!!


 なにも考えず、ただ信じるだけなら簡単。

 目をつぶって全部肯定して――間違っていたのなら、こう言えばいい。

 知らなかったわ。騙されていたの。私は悪くない――と。


 でも、私は見過ごしたくない。

 罪悪感を抱いても、悪意を呑んでもいい。

 もしも彼が間違っているのなら、私が誰よりも一番に気が付きたいと思うから。


 ――疑って、なにが悪いっていうの!!


 長い迷いが晴れていく。

 私は唇を噛むと、今度こそ口を開いて、お腹の底から声を張り上げた。


 暗闇の先にいるはずの、彼に向けて。


「神様――――――――!!」


 瞬間。

 目の前の穢れが砕けるように消えていく。

 かすかな光の痕跡を残し、砂のようにさらさらと風に流れ――。


 地下に、淡い月の光が差す。

 天井に空いた穴からは、瞬く無数の星々と細い月が覗いていた。


「エレノアさん! ご無事ですか!!」


 その月明かりを遮って、月よりもまばゆい美貌が顔を出す。

 息を呑むほどの端正な顔を歪めて、どこか泣きそうな顔で私を見る彼に、私もくしゃりと顔をしかめた。


「……神様」


 彼の姿を見た途端、全身から力が抜けていく。

 へたりと座り込む私の下で、ソワレ様が「むー!」と腹立たしげに頬を膨らませた。


 地上から聞こえるのは歓声だ。

 夜を押し返すような明るい声が、地下にまでわっと響き渡った。

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