31話 ※地上側

 反射的に、リディアーヌは周囲に視線を巡らせた。


 再び現れた穢れに、神官たちは怯えの色を隠せない。

 悲鳴を上げるか、腰を抜かすか、あるいは逃げ出す者ばかりだ。


 神殿兵も、震えながら剣を構える者が数人いるだけで、大半はどうすればいいのかわからず立ち尽くしている。


 聖女で逃げ遅れているのは、リディアーヌたちの他にはマティアスだけだ。

 彼は呆けたように地面にへたり込んだまま、遠巻きに魔物の居た場所を――ソワレの落ちていった穴を見つめている。


「僕が……僕が聖女なんだ……! 僕がソワレ様の聖女なんだ……!」


 うつろな目には怒りが宿る。

 穢れへの恐怖よりも強い怒りに、マティアスは声を張り上げた。


聖女がいなければ、ソワレ様は人間に手を貸せないんだぞ! 僕がいなければ!!」


 そのまま穴に駆け寄ろうとするマティアスを、神官たちが慌てて引き留める。

 その様子を横目に、リディアーヌはもう一度穢れに目を向けた。


 蠢きだした穢れは、魔物の残滓だけあって数は最初に見たときよりも減っている。

 動きも魔物よりは遅く、明確に人間を狙う様子はない。

 先ほどまでと比較すれば、状況としては好転していると言えるだろう。


 なのに、今の兵たちは穢れの動きを止められない。

 めちゃくちゃに逃げ回る神官に、喚き続けるマティアス。周囲は入り乱れ、統率を完全に失っていた。


 ――レナルド・ヴェルスがいなくなって、指揮が執れなくなっているんだわ……!


 状況を俯瞰し、指示を出す人間がいなくなった以上、神官も兵も自分の考えひとつで動く他にない。

 穢れを前に彼らは目の前しか見えず、互いに互いの足を引っ張り合ってしまっている。


 ――ソワレ様もいらっしゃらないし……このままじゃ……!


 いくら穢れの動きが鈍いと言っても、この混乱の中では誰が逃げ遅れるかわからない。

 あるいはここにいる全員が助かったとしても、穢れの動きを止められなければ、いずれ確実に被害者が出るだろう。


 あるいは――――。


 ――穢れが穴に落ちたりしたら、エレノアたちが危ないわ!


 地上と違って、地下は逃げる場所もそう多くない。

 追い詰められれば、逃げ場を失い追い詰められてしまうだろう。


 ――なんとかしないと……でも、わたくしにレナルドに代わって指揮を執る力は……!


 リディアーヌも公爵家の一人。人を使うことには慣れているけれど、さすがに兵たちの指揮を執った経験はない。

 そのうえ、相手は穢れだ。

 倒し方もわからない相手に経験もなく立ち向かうのは、あまりにも無謀すぎる。


 ――いいえ、そもそも穢れの倒し方なんて、知っている人間がいると思って?


 レナルドはなにか掴んでいたようだけれど、彼もまたエレノアとともに地下に落ちてしまった。

 彼が指揮していた兵たちなら多少は穢れについて知っているだろうか。

 でも、倒し方を知ったところでリディアーヌの力ではどうにもならない。


 それなら、どうすれば――――と考えたところで、リディアーヌははっと顔を上げた。

 穢れの倒し方を知っていて、この状況を打破する。

 それができる存在を、彼女はすでに知っている。


「…………神様!」


 そうと気が付くと、リディアーヌは走り出していた。

 穢れから逃げる人々に後ろ髪を引かれる思いはあるが、迷っている暇はない。

 今は一刻も早く、『彼』に会うのが先決だった。


「リディアーヌ!? あんた、どこに行くの!?」


 まっすぐに目的地へ足を踏み出すリディアーヌの背後から、慌てた声が投げかけられる。

 ちらりと視線を向ければ、少し遅れて追いかけてくるマリとソフィの姿が見えた。


「助けを呼びに行ってくるわ! あなたたちは安全な場所に逃げなさい!」


 そう叫ぶけれど、二人が足を止める様子はない。

 息を切らせながら、リディアーヌと同じだけの声で叫び返してくる。


「逃げなさい――って、あんたとエレノアを放って逃げられないわよ!」

「助けを呼ぶなら私たちも行く――けど、あなたどこに行くつもり!? アドラシオン様のお屋敷なら逆方向でしょう!?」


 ためらわずついてきてくれる二人に、くすぐったさを感じる余裕はない。

 リディアーヌは二人から視線を剥がすと、目的の場所を強く見据えた。


「アドラシオン様ではないわ! あの方は穢れに触れることができないの!」

「穢れに触れられない!? じゃあ、誰に助けを――」

「決まっているわ」


 ソフィの疑問に、リディアーヌは迷いなく答える。

 暗闇に落ちる夜の下、月明かりを頼りに見据えるのはただ一点。


 はるか神殿のはずれにある、一柱の神のおわす場所だ。


「エレノアの神様――クレイル様に、力をお借りするの!」

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