30話 ※地上側

 見えたのは一瞬。

 黒いもやに包まれたソワレの肌に、エレノアの指が触れる、そのわずかな瞬間。


 もやが晴れ、黒く染まったソワレの体が色を取り戻す。

 巨大な影が、守るようにソワレごとエレノアを抱き留める。


 それから――――。


「――――エレノア!!!!」


 三人、まとめて落ちていく。

 魔物の抉り出した穴に消えるエレノアに、リディアーヌたちは慌てて駆け寄った。


 いかに魔物の腕力とはいえ、そこまで深い穴を掘ることはないはず。

 すぐに転がっているエレノアを見つけられるだろうと、穴底を覗き込む――が。


「うそぉ!?」

「地下まで抜けちゃってる!?」

あの馬鹿エレノア、運悪すぎない!?」

喜劇コントじゃないのよ! 最後の言葉がデブ神官の名前なんて、笑えないわよ!!」


 マリとソフィが、罵倒めいた心配の声を上げる。

 二人の言う通り、覗き込んだ穴の底は地下を突き抜けていた。


 レンガでできた地下天井は鈍器めいた爪に叩き崩され、思いがけないほどの大穴を開けている。

 いつの間にか西日が沈み、夜に変わった空の下。

 月明かりでは暗闇を照らすことはできず、底にいるはずのエレノアの姿を見つけられない。


「エレノア! 生きているなら返事をしなさい!!」


 リディアーヌは穴の横に膝をつくと、穴底に向けて声を張り上げた。

 だけど返事は聞こえない。自分の声だけが反響して返ってくるだけだ。


「エレノア! あんたまさか、死んだんじゃ……!?」

「だから止めたのに! バカだバカだと思ってたけど、こんな間抜けな死に方ないわよバカ――!!」


「エレノア……嘘でしょう……!?」


 ぞっと全身から血の気が引いていく。

 嫌な予感に、がくりと重たい頭が落ちた。

 頭に浮かぶのは、長いようで短い、エレノアと出会ってからの日々だ。

 リディアーヌの生活を搔き乱す彼女の存在は、騒がしくて、ときに腹立たしくて、でも――。


「こんな形で別れるなんて…………」

「――――よ」

「エレノア、あなた本当に大馬鹿よ! それで死ぬなんて、お人好しにも限度があるわ!!」

「勝手に殺すんじゃないわよ!!」


 ――…………えっ。


「落ちてすぐ返事できるわけないでしょう! 普通に生きてるから!!」


 簡単に殺すな――! と地下から聞こえる怒声に、目の端に滲みかけた涙が引っ込む。

 暗闇に慣れた目でよく見れば、穴の底で身じろぎをする影があった。


 安堵に体の力が抜けていく。

 先ほどとは別の意味で涙が滲みそうになるけれど、リディアーヌはぐっと唇を噛んで堪えた。


 ――まだ、安心していい状況ではないわ。


 生きているというだけで、エレノアが怪我をしていないとも限らない。

 一緒に落ちたレナルドと、明らかに様子のおかしかったソワレのことも気になる。

 彼らの様子をたしかめるためにも、まずは穴の底から三人を引き上げるのが先決だ。


「待っていなさい! 今、ロープかなにかを――――」


 周りの神殿兵たちの力も借りて、ロープで引っ張り上げるか、動けないようなら兵たちに降りて担ぎ上げてもらおう。

 そう思って周囲に目を向けたリディアーヌは、そのまま続く言葉を呑み込んだ。


 目にしてしまったのは、すでに形を失った魔物の残骸。

 黒く粘ついたその残骸が――ぼこり、と不気味に泡立った。


 ――魔物……じゃない。


 ぼこり、ぼこりと泡立ちながら、蠢きだすそれは――。


 ――穢れ。


 ソワレが受け止めきれなかった魔物の残滓――穢れだ。

 倒れたはずの魔物が再び穢れに戻っている。

 悪夢のような光景に、どこかから悲鳴が響き渡った。

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