27話

 膜を裂く巨大な爪に、人々は思い出したように悲鳴を上げた。

 汚泥のような穢れにまみれた、獣の足が地面を踏む。

 ズン……と重たい音のあと、遅れて足元が揺れた。


 ――魔物。


 黒い毛皮に覆われ、二足で立つそれは、形だけなら熊に似ていた。

 ずんぐりとした体に、太い四本の手足。耳は小さく、口は裂け、牙の隙間から黒い舌が覗いている。

 赤い瞳は無機質で、同時に獣らしい、獰猛な色をしていた。


 熊と違うのは、両腕の先にある奇妙な爪だろうか。

 硬質な黒さを持つ爪は、それ自体が人の指のように長い。

 切り裂くには鋭さの欠けたその爪は――重たい、鈍器を想像させた。


 ――いえ。


 そんなものは、きっと些細な違いだ。

『それ』が私たちの見知った獣でないことは、一目見ただけで明らかにわかる。


 ――なんて大きさなの……!?


 身の丈は、大の大人の三倍はあるだろうか。

 鈍重な体は、一歩足を踏み出すだけで地面を揺らす。

 身を逸らし、産声のように吠え声を上げれば、耳が痺れるほどの轟音が響き渡った。


 魔物の巨体を前に、逃げ出せる人間は多くない。

 ほとんどの人々が足を震わせ、その場に凍り付いたように立ち尽くす。

 少し前まで、勇敢に穢れに立ち向かっていた兵たちでさえ、怯えたように魔物を見上げるだけだった。


 それはつまり――魔物にとって、格好の餌食であるのと同じこと。

 自分を囲う兵たちを映し、魔物は酷薄そうに目を細めた。


 ――――あ。


 動けないまま見上げた先。

 黒い影が、その凶悪な腕を振り上げる。

 夜に沈む空の下。長い爪が重たく光る。


 次の瞬間。


 逃げろ――――という叫び声が聞こえたのと、魔物の腕が振り下ろされたのは、ほとんど同時だった。

 我に返った兵たちが、叫び声をあげて散り散りに逃げ惑う。


 だけど――逃げきれない。

 背中を見せて走る兵の一人に、魔物の爪が届く――――、




「――――ぁ、ぐ、う……っ!」


 聞こえたのは、少女のうめき声だった。

 逃げ遅れた兵は、押し倒されたかのように、前のめりに地面に倒れている。


 なにが起こったのかわからない――言いたげに振り向く彼の背後。

 魔物の爪が捉えるのは、小柄な影だった。


「ソワレ……様……!」


 爪にしがみつく彼女の姿に、兵をかばったのだと少し遅れて気が付いた。

 魔物は苛立たしげに手を払うが、ソワレ様は離れない。

 むしろ、ますますしがみつく手に力を込めているように見える。


「うう…………!」


 歯を食いしばり、顔をしかめ――――両腕を黒く染めていくソワレ様に、動揺したのは魔物の方だ。

 目を見開き、咆哮を上げ、慌てたようにソワレ様のしがみつく腕を振る。

 どうにか払い落とそうと、魔物は無茶苦茶に腕を振り回した。


 巨大な腕が、地面を大きくえぐり取る。

 ぽっかりと空いた穴の上、土塊が宙を飛ぶ。

 それでもソワレ様は離さない。

 腕だけではなく、その顔さえも再び黒く染まる姿に――――。


 なにをしているのか、私はようやく気が付いた。


 ――魔物の……穢れを……!!


 受け止める――いや、吸い取っているのだ。

 苦しげに魔物が叫ぶ中、しがみつくソワレ様もまた細く悲鳴を漏らした

 ソワレ様の指の先が形を失い、焼け焦げるように黒い煙が上がる。

 煙が増すほどに、魔物の体が縮んでいく。ソワレ様の体が溶けていく。


 誰も動けなかった。

 悲鳴さえも消えた神殿に、魔物の断末魔が響き渡ったとき――。


 魔物はどろりと溶け落ちて、ソワレ様もまた放り出された。

 ぽっかりと空いた穴の中へ。


 形を保てないソワレ様が、落ちていく、その光景を――――。






 見るよりも先に、私は走り出していた。

 ほとんど反射的に、なにができるかなんて、まったく頭にも浮かばないままに。

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