23話

 だけど、覚悟した瞬間は訪れなかった。

 最悪の予感に、目を見開く私の目の前。

 突然飛び込んできた小さな影が、二人を呑もうとする黒い穢れを受け止める。


「――――ぐ、う……っ」


 聞こえたのは、苦しげなうめき声だ。

 巨大な穢れに半ば埋もれながら、両腕を開いて抱き留めるその後ろ姿に、私は息を呑む。


 私よりも低い背丈。

 艶やかな黒い髪。

 穢れに覆われながらも垣間見える端正な横顔と――黒く染まる腕に、見覚えがある。


「ソワレ様!!」

「はな、れて……!」


 喘ぐようなソワレ様の言葉に、私は反射的に頷いた。

 どうして、なぜ――なんて考えている余裕はない。

 立ち尽くしたままのマリとソフィを今度こそ掴んで、穢れから引き離すように腕を引く。


「うう…………!」


 距離を取る私たちを背に、ソワレ様は穢れを抱く腕に力を込める。

 血の気の引いた横顔が、歯を食いしばる瞬間が見える。

 目元を歪め、荒い息を噛み殺し――――。


「う、あ、ああ…………!!」


 か細い悲鳴のような声が漏れたとき、穢れは動きを止めていた。

 いや――止めただけではない。


 ――小さく……縮んで……!?


 ソワレ様の腕の中、穢れが見る見るうちに小さくなっていく。

 扉を押しつぶすほどの巨体が、大人くらいの大きさに、子供くらいの小ささに。最後にはソワレ様の腕に収まり――――。


 すう、と吸い込まれるように、完全に消えていった。




 食堂の内外からは、未だ悲鳴が響いている。

 恐怖のせいか、あるいは安堵のせいか。止まない悲鳴の中で、ソワレ様は一人、糸が切れたように膝をついた。


「…………は、あっ」


 痛々しいくらいの音とともに崩れ落ち、受け身も取れずによろめき倒れる。

 そのまま立ち上がることもできないソワレ様に、私は慌てて駆け寄った。


「ソワレ様! 大丈夫ですか!?」


 口ではそう言ったけれど、大丈夫でないことは見てわかる。

 地面に伏せ、荒く息を吐くソワレ様から返事はない。

 とにかく助け起こそうと私も膝をつき、ソワレ様の体を抱き上げ――その感触に、凍り付く。


 ――やわらか……!?


 人の体の感触ではない。

 両腕は、目を向ける間でもなく真っ黒だ。

 顔は――――。


「ソワレ……様……!」


 うつむいたままのソワレ様の顔は――ない。

 影が落ちたかのように黒いだけだ。


「――見ないで」


 ソワレ様は顔を上げずに、助け起こそうとする私の腕を振り払った。


「大丈夫、だから」

「そんなわけないでしょう……!?」


 私の手を払っても、ソワレ様は未だ立ち上がれもしない。

 体に力が戻った様子もなく、顔もずっと伏せたまま。

 元の姿に戻ることができずにいるのだ。


「誰かを……マティアス様を呼ばないと……!」


 今のソワレ様を放っておくことはできない。

 聖女であるマティアス様がいれば、穢れを浄化できるはず。

 そう、縋るように私は顔を上げ――――。


 私はようやく、自分たちの置かれている状況に気が付いた。


 悲鳴は、食堂の内と『外』から聞こえていたのだ。




 視界に映るのは、食堂の『外』の光景だ。

 悲鳴を上げる聖女たちと、彼女たちを逃がす神官たち。

 剣を手にした神殿兵に――――黒く蠢く、影。


 ――――うそ。


 目の前の光景に、全身から血の気が引いていく。

 響き渡る悲鳴さえも、耳に届かなかった。


 まだ夜になりきらない、赤い日の残る神殿の日暮れ。

 私が目にしたのは、神殿を蹂躙する穢れの群れだった。

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