22話

『エレノアさん』


 黒くてどろどろの体をうごめかせ、逃げるように部屋の隅に張り付き、遠慮がちに名前を呼ぶ神様。


『エレノアさん、私は――』


 ぷるんと丸い体を震わせて、微笑むようにゆるく揺れる。

 つつけば『あうっ』と少し情けない声を出して、困った様子で逃げる神様。


『あなたの心を慰められる、私になりたいんです』


 姿が変わっても、神様自身は変わっていない。

 穏やかで、優しすぎるくらい優しくて――。


『エリックさんが――そうですか』


 そのはずでしょう?


『やっぱり』


 ――神様を信じられないの?


 神様のことは傍で見て知っている。

 悪意なんて一切知らないような人だ。

 あんな黒い塊になっても、誰も恨みはしなかった。


 ――でもその黒い塊はどこに行ったの。


 私が神様の穢れを払っているから。穢れがなくなれば神様は元の姿に戻る。

 なにもおかしいことじゃない。成果が出ているだけ。


 ――私の魔力量で? そんなに劇的な変化が出る? 今まで少しも変わらなかったのに?


 そう考えるしかないじゃない。

 だって『聖女』は神様を信じるものだ。

 誰よりも深く神様を信仰して、なによりも一番に神様を思って、心を尽くして仕えられなければ聖女とは言えない。


 神々はこの国を守って、人々を導いてくれる存在。

 そんな神様に選ばれた聖女なら――。


『本当の聖女』なら、自分の神様を疑うなんてのだ。


 ――じゃあ、なんで。


『売る』なんて考えたの。


 ――違うって信じているのなら、どうして迷う必要があるの?





「――話は終わりよ。日が落ちる前に帰りましょう」


 まだ西日の残る食堂内。

 リディアーヌがそう言って立ち上がり、マリとソフィも後に続く。


 私は一拍遅れ、外に向けて歩く彼女たちの背を追いかけた。


 ――言わなきゃ。


 信じているなら言えるはず。

 神様が原因でないのなら、話をしても問題ない。


 ――リディのためなのよ。


 言葉はすでに、喉の奥まで出かかっている。

 あとは口を開いて、声に出すだけ。

 それだけなんだから――。


 ――――言いなさい!


「リディ――――」


 迷いを無理やり押し込めて、私は顔を上げた。

 視線の先にいるのは、先頭を歩くリディアーヌの背中。

 暮れかけの内に宿舎へ送ろうと、食堂の入り口に手をかけた、ちょうどそのときだ。


 ギイ、と音を立てて入り口の扉が開く。

 西日が差すはずの扉の外。

 扉の隙間から、見慣れた外の光景は――見えない。


 ――…………黒?


 真っ暗だ。

 外の景色はなく、夕日もなく、一切の光がない。

 夜の闇よりもなお暗く、どろりと重たいそれは――――。


「……エレノア? どうしたの?」


 私の呼びかけに、扉に手をかけたままリディアーヌが振り返る。

 マリとソフィも立ち止まり、どうしたのかとこちらを見る。

 三人とも、外の景色に気が付いていない。


 扉の隙間から、大きく波打つ『それ』が覗いていることも。

 扉に手をかけたリディアーヌに向け――――黒くよどんだ手を伸ばしていることも。


「――――危ない!!!!」


 言いかけた言葉を呑み込み、私はリディアーヌに向けて手を伸ばした。

 呆けた彼女の腕を思い切り掴むと、力任せに引き寄せる。

 勢いあまって倒れる彼女に、だけど目を向けることはできない。

 私は扉に目を向けたまま、立ち尽くすマリたちに声を張り上げる。


「マリ! ソフィ! 扉から離れて!!」


 困惑するマリたちへ叫ぶのと――扉が軋む音がしたのは、ほとんど同時だった。

 みしり、と嫌な音を立てて、食堂の入り口に亀裂が走る。


 音に気が付いたからか――それとも、悲鳴が聞こえたからか。

 マリとソフィは、思わず、というように背後に振り返ってしまう。


 目に映るのは、黒い塊が扉を押しつぶす瞬間だ。

 ようやく遮るものが消え、どろりと重たげに『それ』が中へ入ってくる。


 光を通さない黒い影。

 どろりと粘つき、重たく波打つ不定形の体。

 見ただけで嫌悪感を覚えるような、人の悪意の塊は、マリたちにも見覚えがあるものだ。


「穢れ――――」


 つぶやいたのは、二人のうちのどちらであるかもわからない。

 立ち尽くしてしまうのは、その恐ろしさを知っているからこそだ。

 息を呑み、凍り付いたように動けない二人に、私は再び手を伸ばす。


「マリ! ソフィ――――!!」


 穢れから遠ざけようと、反射的に足を踏み出す。

 だけど、間に合わない。黒い影の方が近い。


 ――だめ。


 黒い影が伸びる。

 粘ついた体が、呑み込むように二人の体に覆いかぶさる――――。

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