21話
リディアーヌは言葉を切り、反応を待つように口をつぐむ。
マリとソフィは顔を見合わせ、その表情を曇らせた。
西日の差す食堂内。不意に落ちた重い沈黙に、私だけが戸惑ったように声を上げる。
「危険って……でも、私はなんともなかったわけだし……」
穢れを見たのは事実だけど、距離は十分にあったし、あちらから近づいてくる気配もなかった。
ソワレ様がいなくても、大回りして穢れを避けることはできたはずだ。
そもそも、ソワレ様の気配に気が付いたのは、穢れをどうにかしようと考えたことが原因だ。
それで気配を追って、たまたまソワレ様が穢れを受け止める瞬間を見かけただけ。
運がよかった――と言うよりは、自分から首を突っ込んでしまった形だろう。
「それに、今まで調べまわっていて、穢れを見たのはその一回だけよ? 動きも遅かったし、襲って来なかったし、穢れが増えているって言ってもこれなら別に――」
気を付けていれば大丈夫。
遅くなりすぎないように注意すれば、あまり人気のない場所に行かなければ――。
口にしかけたその言葉を、私は思わず呑み込んだ。
こちらを見る三人の暗い視線に気付いてしまったからだ。
リディアーヌどころか、マリとソフィまで苦々しい顔で、言葉をためらうように口元を曲げている。
「……どうしたの? なにかあったの?」
増え続ける穢れに尻込みしている、というだけの表情には見えなかった。
もっとずっと深刻そうな三人の様子に、だけど私は心当たりがない。
「あったわ。……あんたは謹慎していたから知らないでしょうけど」
困惑する私に、口を開いたのはマリだった。
彼女はもとからきつめの顔をさらに険しく歪め――。
口にすることさえ恐れるように、声を落としてこう言った。
「――――魔物が出たのよ。神に守られた、この神殿に」
魔物とは、濃い穢れから生じる、生物の姿を模した『なにか』だ。
その姿は、ある程度の法則はあれど、基本的に姿は定まらない。
狼のような姿もあれば、鳥のようなものもいる。爬虫類や虫の他、かつての神様のようなまったく生物とは思えない形を取ることもある。
魔物と穢れを大きく分けるのは、姿かたちだけではない。
穢れとは本来、せいぜい蠢くだけの『澱み』だ。触れれば呑まれる恐れはあるけれど、呑み込もうと襲ってくることはほとんどない。
穢れのまま膨れ上がり、襲ってきたロザリーは例外中の例外なのだ。
対する魔物は、明確に人を襲う。
人を憎むかのように付け狙い、穢れのように呑むことさえもなく、実体を持った爪や牙で傷つける魔物の脅威は、穢れの比ではない。
他国では魔物のせいで、毎年何人もの被害者が出ているという話だ。
だけど、国内に魔物が現われるという話は、この国ではほとんど聞いたことがない。
ときおり現れるという魔物も、ほとんどが国境付近――他国から迷い込んできたものばかりだ。
これこそは、神々のご加護である。
この国が神に守られている、なによりの証なのだ――という話だったのに。
「まさか、そんなこと……」
ありえない、と私は知らずつぶやいていた。
魔物は穢れから発生する。今の神殿の状況を考えれば、いずれ魔物が現われるのも無理はない――と頭で理解はしても、すぐには受け止められなかった。
だって、他国ならいざ知らず、ここは神々の守る国なのだ。
国内での魔物の発生は、建国神話まで遡らなければ聞いたことがない。
私にとって魔物とは、神話やおとぎ話の中だけの存在だった。
「ソワレ様がすぐに対処してくださったから、魔物が今もうろついているってことはないんだけど……今の状況でしょう? 穢れも減るどころか増える一方だし」
「今後もまた、魔物が出るかもしれない……って、聖女の間では噂になっているのよ。マティアス様も、そのせいでずっとお忙しそうで」
絶句する私をよそに、マリとソフィは話を続ける。
不安げな二人の視線が向かうのは、リディアーヌの隣――以前、マティアス様が座っていた場所だ。
「マティアス様、責任感の強いお方だから……。ソワレ様しか穢れに対応できないのもあって、穢れが出るたびに駆けつけているらしいの」
「その肝心のソワレ様も、調子が悪いらしいって噂なのよね。私は見たことないけど、すごく顔色が悪かったって聞いたわ」
「――そういうことよ」
二人の会話を引き取り、リディアーヌは険しい顔のまま言った。
「魔物の危険がある中で、あなたたちを夜遅くに出歩かせることはできないわ。今日も早いうちに帰りましょう。宿舎までは、わたくしが送っていきます」
「リディ、でも」
「言い出した責任、なんてものは感じなくて結構。もともと難しい話だったもの。原因を見つけ出して、わたくしが犯人でないことを証明するなんて」
言い縋ろうとする私を、リディアーヌは短く切り捨てる。
声は相変わらずツンとして、私に口を挟ませない。
「本当はわかっていたわ。アマルダ・リージュを納得させるだけの証拠は集められないだろうということくらい。若い神官の大半は彼女に心酔しているし、レナルド・ヴェルスも人望があるから、敵に回った時点で神殿側の協力が得られないことは予想できたもの」
「…………」
「二人とも、説得も難しい相手だわ。アマルダ・リージュはあの通りだし、レナルド・ヴェルスの方も――悪い男ではないのだけど、かたくなでしょう? 一度決めたものを曲げさせるのは難しいわ」
わかっていた――はずなのに。
リディアーヌはそう言うと、緩く頭を振った。
険しい表情は変わらず、だけど口元はかすかに歪んでいる。
それはどこか自嘲的な――寂しそうな笑みだった。
「あなたたちのせいで、判断を間違えてしまってよ。……もしかして、まだ神殿に残れるんじゃないかって」
「リディアーヌ……」
思わず、というように漏らしたマリの言葉に、リディアーヌは目を細める。
泣き出しそうなその笑みは、だけど一瞬だ。
瞬きのあとには、誇り高い公爵令嬢の顔に戻っている。
「わたくしはきっと、穢れの元凶として神殿を追い出されるでしょう。力を尽くしてくれたのにこの結果は、残念だけれど仕方がないわ」
夕日の差す中、リディアーヌはツンと顎を持ち上げた。
片手が髪をかき上げ、豊かな黒髪が揺れる。
ふん、と息を吐く彼女は、未練すら吐き捨てるようにこう言った。
「もとよりわたくしは偽聖女。神殿にいる方がおかしかったもの」
高慢で高飛車。いかにも貴族然とした彼女は、下位聖女用の簡素な食堂には似合わない。
場違いというのなら、たしかにそう。
アマルダに目を付けられ、窮屈に神殿で過ごすくらいなら、公爵家に戻った方がよほど彼女らしくいられるはずだ。
――でも。
一瞬の表情を見てしまった。
寂しそうな彼女の笑みに――私は尋ねずにいられなかった。
「……リディは、それでいいの?」
「いいも悪いもないわ。……アドラシオン様に合わせる顔はないけれど」
リディアーヌは表情を崩さず、私に向けて口を曲げてみせる。
「あなたには話したけれど、そもそもわたくしは、神殿を正すために来たのよ。そのために、聖女として神殿に入るのが近道だっただけ。聖女の座に固執しているわけではないわ」
「そう……だったわね」
アドラシオン様に求められて、神殿を変えるために来たとリディアーヌは言っていた。
私と違って、聖女になることが目的だったわけではない。
神殿を正すと言うのであれば、きっと聖女でなくなっても方法はあるはずだ。
「神殿も、居心地の良い場所とは言えなかったわ。アドラシオン様のためでなければ、すぐにでも出て行きたいと思っていたくらいよ。いっそせいせいするわね」
そう言ってから、彼女はまた一度目を伏せる。
伏せた目は、そのまま迷うように、どこか遠い場所を見る。
私たちの顔を見ないまま――そっぽを向いたまま口にするのは「でも」という言葉だ。
「でも――最後の方だけは、少し。……ほんの少しだけ、楽しかったかもしれないわ」
――…………あ。
こちらを向かないリディアーヌに、私は内心で声を漏らした。
断固として逸らした顔。夕日に照らされる彼女の後頭部。
微かに肩を震わせて告げた彼女の本心に、声もないまま私は口を開いた。
胸の奥、ぐるりと渦を巻くような感情がある。
痛むほどの、重たく暗い迷いが満ちている。
喉の奥まで、声が出かかっている。
――言わなきゃ。
あのとき――マリたちの言葉を聞いたとき。
絶句したのは、魔物の存在に驚いたから、だけではない。
頭をよぎるものがあったからだ。
穢れの元凶。真犯人。リディアーヌの無実を証明するもの――。
私の頭に、『彼』の姿が浮かんでしまっている。
――神様。
でも、じゃあ。
私はリディアーヌのために――。
神様を、売るの?
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