16話 ※聖女視点
夜の闇の中を穢れが這う。
怒り、恨み、嫉妬。
神殿に渦を巻く悪意に呑まれ、抱かずにはいられなくなった重たい感情は、ただ救いを求めていた。
清いものに救われたい。
この苦痛を理解されたい。
醜い己を、なにも言わなくてもいい。受け止めてほしい。
見捨てられた大地に、もはや母神の
人を赦すことができるのは人だけだ。
「あま……るだ……さま…………」
清めてほしい。
包み込んでほしい。
穢れは泥のような嘆きの声を上げながら、光に集う虫のように這い続けた。
「たすけて………………」
いや、もはや穢れは光すらも感知できない。
暗闇に堕ちたように、穢れはなにも映さない。
哀切した屋敷を覆う、嘆きの影の濃さも。
「たすけて、たす――――」
穢れが屋敷の影に踏み込んだ瞬間、声は途切れた。
神官の生み出した小さな穢れを覆うのは、屋敷から滲む巨大な影だ。
夜の闇に紛れ、どろりと重たく影が蠢く。
小さな穢れを捕らえ、包み込み、呑み込むさまは――どこか、生物のする捕食にも似ていた。
逃れようと暴れる穢れを、巨大な影は離さない。
端からゆるりと溶かし、溶けあい、一体化していく。
――たすけて。
救いを求めてここまで来たはずの穢れが最後に聞いたのは、さらなる苦痛の声だった、
「…………?」
なにか声を聞いた気がして、アマルダは振り返った。
かすかに耳の端が捉えたのは、うめき声にも聞こえたし――誰かの泣き声のような気もした。
だけど、振り返ってみた窓の外は暗い。
闇に覆われた静寂の夜。窓から覗く空には、月明かりすらも見えない。
風の音もなく、葉擦れの音もなく、夜に鳴く鳥の声もない。
「……気のせい?」
前にもこんなことがあったような気がする。
だけどいつのことだかは、アマルダには思い出せない。
たいして関心もなく、どうでもいいことと忘れてしまったからだ。
「疲れているのかしらね。こんな状況だから」
アマルダは窓から視線を外すと、頭を振ってソファに腰かけた。
それから、隣に座る無口な影に笑みを向ける。
「みんなに期待されてしまっているんだもの。私が神殿を――この国を救うんだって」
助けて――と救いを求める声は、きっとアマルダの内側から聞こえたものなのだろう。
国中の人々が穢れに苦しみ、最高神の聖女であるアマルダに救われるのを待っている。
この状況を変えられるのは自分しかいない。
そのことを気負いすぎているのだと、アマルダは苦笑した。
「私だって、普通の女の子なのにね」
少し魔力に優れているだけの、ごくありふれた少女。
それが
優しい両親のもとに生まれ、仲の良い幼なじみがいて、喧嘩をしたりもするけれど、みんなに愛されてきた。
変わったことはなにもしていない。ただみんなの愛を受け、まっすぐに育っただけ。
人並みに優しくて、人並みに正義感があって、人並みに友達を大切にして――それを周りが勝手に褒めたたえて、最高神までもが『聖女に』と求めてきたのだ。
――そんなつもりはなかったのに。
重すぎる期待は苦しいし、望まずして買ってしまった嫉妬は悲しい。
最高神の聖女である前に、アマルダは繊細で傷つきやすい、一人の少女。
重責になにも思い悩むなというのは、あまりにも酷な話だ。
「……でも、選ばれてしまったものね。私にしかできないの」
アマルダは静かに息を吐くと、悩みを払うように顔を上げた。
視線の先。瞳に映るのは、絶世の美貌を持つ己の伴侶――最高神グランヴェリテだ。
屋敷の最奥。最高神の住まう部屋。
自分だけが入ることを赦されたその部屋で、彼女はそっと美しい伴侶に頭を預ける。
彼はアマルダを決して拒まない。
伴侶として寄り添う彼女を、無言で受け止めてくれている。
金の瞳は、まっすぐに見下ろしてくれている。
それこそが、彼がアマルダを愛している紛れもない証だ。
――わかっているけど……。
ただ、その腕をほんの少し持ち上げて、自分の肩に回してくれれば。
その口で、自分の名前を呼んでくれさえすれば。
それだけできっと、このためらいは晴れるはずなのに――――。
「…………えっ」
とん、と肩に触れるなにかの感触に、アマルダは小さく声を上げた。
驚き、目を見開いて視線を向ければ、その正体が目に入る。
肩口から覗くのは、陶器のように滑らかな指先。
大きな手のひらが肩を掴み、持ち上げた腕がアマルダを引き寄せる。
「グランヴェリテ様……?」
アマルダの言葉に、最高神が目を細める。
かすかに浮かんだ――だけど紛れもない笑みに、アマルダは呼吸が止まりそうだった。
――微笑みかけてくださった……!
人を超越した最高神は、いつだって人形のように無表情だった。
それは、人と同じ感情を持たないから。
それこそが些事にとらわれない、偉大なる最高神としての振る舞いだと思っていた。
――でも、でも……!
端正な目は細められ、唇は弧を描き、彼は自らアマルダを抱き寄せる。
片手は肩に。もう片手は腰に。肌をぴたりと合わせ、少し苦しいくらいに抱きしめられている。
その事実に、心が沸き立った。
些事にとらわれないはずの彼が――他の誰でもない、アマルダを求めているのだ。
「――――あ」
聞こえたのは、ほとんど抑揚のない声だ。
最高神がアマルダの耳元で、長く、深く息を吐く。
抱き寄せられるアマルダに、その顔は見えない。
ただ、吐息だけが感じられた。
「アマルダ――――」
紡いだのは、ほんの短い言葉。
だけどたしかに聞こえた己の名前に、もうアマルダは迷わない。
「グランヴェリテ様、嬉しい……!」
それ以上、伝える言葉は出なかった。
ただ、抱きしめる彼の体を、同じだけ強く抱き返す。
胸の中に、感情があふれている。
愛する人に愛された嬉しさ。ずっと真摯に仕え続け、ついに応えてくれたことへの感動。これで身を任せられるという安堵と、期待。それから――。
今の彼女にはわからない、恐ろしく人間らしい感情に、アマルダはうっとりと目を閉じた。
『アマルダ――――さま』
続く言葉は、彼女の耳には届かない。
おぼろ月の浮かぶ夜。黒く塗りつぶされた窓に、彼女は気づかない。
屋敷を取り巻く深い影も――己が仕える神の顔にさえ。
『あまるだざま』
目を背けているわけではない。
気づかない振りをしているわけでもない。
『だずげで』
もとより――。
『だずげで』
『だずげで』
『だずげで』
『だずげで』
『だずげで』
彼女にとって、『それ』は無縁の存在。
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