12話 ※ソワレ視点

「アマルダ……さま……」


 ぽとり、ぽとりと黒い跡を残しながら、『それ』は暗い雑木林をゆっくりと進んでいた。

 体の輪郭は危うい。抱えきれない穢れがあふれ、身も心も呑み込もうとしている。


「アマルダさま……いやだ、いやだ…………」


 怒り、憎悪、嫉妬。自らの醜い感情に押しつぶされ、黒い影が苦しげに喘ぐ。

 もはや目の前さえも見えないだろうに、うつろな目はただ前だけを見据えていた。


 見えない視線の先にあるのは、最高神の聖女が住むという屋敷。

 この神殿で、もっとも清いもののいる場所だ。


 影は形を崩し、思考さえも失いながら、影は這うように進み続ける。

 誘われるように、招かれるように、あるいは――――。

 救いを求めるかのように。


「あま、るだ、さま……たす、け、て…………」


「彼女は救いにならないよ」


 輪郭の溶けた影を前に、ソワレは眠たげな目を細めた。

 目の前に立つ自分の姿にも気が付かず、壊れたようにただ歩み続ける彼のことを、彼女は知っている。

 まだ年若い、見習いから昇格したばかりの神官。素直で情熱的で、神に仕えるという神官の仕事に誇りを持っていた。

 優しくまじめで――世間知らずで初心な、穢れを知らない子。いつかこうなると思っていた。


「向いてないって言ったのに。エミール」


 この世で最も尊い仕事をするんだ――と輝かせていた彼の目は暗い。

 目の前しか見えない性格だったのに、もう目の前のソワレのことさえ見えなくなってしまった。

 行く手を遮るソワレを避けることなく進み、草木と同じく呑み込もうとする。


 黒くどろりとした穢れが触れても、だけどソワレは動かない。

 そのまま、重なる影を抱き留める。

 黒い穢れが染みるように肌に吸い込まれ、彼の抱える穢れにわずかにうめいた。

 人の感情は重くて、痛い。神すらも侵食するほどに。


 それでもなお、ソワレは彼を抱く手に力を込める。

 穢れを受け止めながら、彼女は静かに囁いた。


「おやすみ、エミール」


 黒い影が輪郭を取り戻していく。

 体を呑む穢れが消え、彼本来の姿に戻っていく。

 夜風に髪が流され、うつろな目は静かに閉ざされ、救いを求める口から吐息が漏れる。

 心を占める感情を失い、赤子のように力なく眠る彼の背中を撫でながら、ソワレは残る穢れも引き受けようとして――――。


「…………っ!」


 喉の奥、声にならない声が出る。

 眠る彼の体を支えきれない。

 ドサリと音を立てて地面に落ちる彼の姿を横目に、ソワレは目を見開いた。


 ――受け止めきれない……!


 腕に力が入らない。

 吸いきれなかった穢れが、倒れた彼の傍でうごめいている。


 だが、それすらも目に入らず、彼女は黒く変じた自分の両腕を見つめた。

 闇の中に溶けるように揺らめいて、今にもどろりと溶け落ちそうな、自らの姿を。


 ――……姿を保てない。


 どれほど力を込めても、両腕が戻らない。

 あるいは、腕だけではないのだろうか。ソワレは見えない自分の頬に触れ、目元を歪めた。

 自分が今、どうなっているのかさえわからない。

 このままでは、悪神に堕ちるのも時間の問題だった。


 ――見られるわけにはいかない。


 今のソワレの姿を見て、人間たちはどんな反応をするだろう。

 想像するのは容易かった。

 嫌悪をもよおす穢れを纏い、醜い無能神と呼ばれたお方を知っている。


 人々はソワレを拒絶するだろう。

 それが、きっと最後の一押しだ。

 自分を拒む人間たちを見たとき、ソワレは完全に堕ちるだろう。


 ――離れなきゃ。


 足元で小さくうめく彼から、ソワレは足を引く。

 そのまま、逃げるように立ち去ろうとする――直前。


 正面の茂みが揺れた。

 驚く間もなく、ガサガサと乱暴なくらいに音を立てて誰かが近づいてくる。


「――ソワレ様!」


 鋭い声は女性のものだ。

 責められたようにびくりと強張るソワレの前。

 茂みから姿を見せた『彼女』はソワレを見て、目を吊り上げた。


「あなたその姿――――」


 隠せない。誤魔化せない。

 最悪の予感にソワレは震え――――。


「大丈夫!?」


「えっ」


 恐れるでもなく、嫌悪するでもなく、醜さに怯みもせず。

 素直にかけられた心配の言葉に、ソワレは瞬いた。

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