12話 ※神様視点

 ――気持ち悪い。


「神様、『やっぱり』ってどういうことですか」


 腹の奥、なにかぐるんと重たく揺れている。

 粘りつくように重たい『それ』に、彼は吐き気がした。


「エリックのこと、なにか知っているんですか」


 伸ばしかけたままの手を握りしめる。

 少し前まで逸らしてばかりだったエレノアの目は、今はまっすぐに彼に向いている。

 その真剣な表情を見ていられず、今度は彼が目を逸らす番だ。


 ――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


 今の彼を満たすのは、どろりとした感情だった。

 かつては体の外にあり、今は体の内にある、人の穢れが彼の思考を歪ませる。


 ――エレノアさんは、ただ心配しているだけだ。


 先日会ったばかりの婚約者を心配することに、なんの間違いもない。

 自分を傷つけた相手の行方さえ気にかける優しさは、むしろ本来の彼なら称賛していたはずだ。

 なのに、彼はその優しさを喜ぶことができない。

 ただ、醜さだけが胸の中を埋め尽くしている。


 ――私が目の前にいるのに。


 どうして、他の男のことを、と。


「……エリックさんは」


 気持ち悪さを呑みこみ、彼は静かに言葉を吐く。

 揺れる感情を抱きながら、できるだけ平静を装う自分に、ますます吐き気がした。


「一昨日部屋に来た時から、穢れを抱えていました。穢れは他の穢れを呼びます。特に彼の抱くものは、今の神殿にあふれているものとよく似ていました。……なので、そういうことも起こるかと」


 ――『装う』など。


 それは人間のすることだ。相手を偽り、騙すための行為だ。

 自分のしたことが信じられない。

 だけど内心に抱く感情を、そのまま彼女に晒すこともできなかった。


 誰かを妬み、疎み――彼女自身にさえ苛立っている。

 そんな自分の姿を、どうしても彼女には見せたくなかった。


 ――どうして、こんな。


 自分の感情が理解できない。

 この感情はいったい、なんなのだろう。

 エレノアのことを大切に思っている。醜い無能神である自分を労り、神として接してくれたから――だけではない。

 ただの聖女としてではない。一昨日、彼女の穢れを受け止めたから、でもない。

 きっともっと前から、エレノアは彼にとって特別で、大切で、優しくしたいと思っていた。

 そのはずなのに。


 ――どうして。


 胸に浮かぶのは醜い感情ばかりだ。

 神の抱く大きな慈しみとは違う。

 人間たちが語る無償の愛とも違う。

 彼女に優しくしたいと思えば思うほどに、体の内にある穢れの濃さばかりに気づいてしまう。


「エレノアさん」


 吐き気がするほどの醜さを抱えながら、彼はもう一度エレノアに手を伸ばす。

 逃げようとする手を、今度は逃さない。

 力を込めてぐっと引き寄せる。


「神様……!?」


 戸惑うエレノアに、彼は目を細めた。

 掴んだ手の指先が強張って、落ち着かずにそわそわと動いている。

 その様子が、なんだか嬉しい。

 いつもは彼ばかりが戸惑わされてばかりだったのに、今は彼女が自分を意識してくれている。


「ど、どうしたんですか、急に!」

「おまじないをさせていただきたくて。すみませんが、少しだけ手をお借りします」

「おまじない……?」


 いぶかしむエレノアの声に、彼は頷いてみせる。

 それから、我ながら言い訳めいていると思いながら、嘘くさい笑みで口を開いた。


「さっきも言った通り、ここ最近の神殿には穢れが満ちています。以前のときのように、エレノアさんが襲われないとも限りません。なので、穢れ除けのおまじないを」


 そう言って、彼はエレノアの手を握りしめる。

 そのままゆっくりと注ぐのは、まだ彼自身でも知らない神としての力だ。


「本当は、特定の誰かにこんなことはしないんですけれど。どうしてでしょうね」


 視線を落とせば、繋がれた自分と彼女の手が見える。

 触れ合う肌よりも、もっと深い場所で繋がった力に、彼は知らず口の端を持ち上げた。


 穢れ除けなのは間違いない。

 穢れも、他の神も、きっと彼女に手を出すことはできないだろう。


 この力を、人は神の『加護』と呼ぶ。

 神による祝福だと、人々は喜ぶが――。


「どうしてあなただけは、こんなに特別なんでしょう」


 祝福ではない。これはお呪い。

 彼にとっては、刻み込まれた『証』のようなものに思えた。

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