5章(前)

1話 ※アドラシオン視点

 いつも通りの神殿の朝。なにごともないような平和な空の下。

 この日、このとき、この瞬間――何が起きたか気づいていたのは、『彼』の他にはきっと神々だけだろう。


 ――兄上。


 アドラシオンは窓から空を見上げ、少しの間目を閉じた。

 今の彼が思い出すのは、はるか昔に聞いた言葉だけだった。


『――そこまでして、人間を守る価値がどこにある』


 ――兄上には、わからないでしょう。


 もっとも偉大で、もっとも尊く、誤ることも違えることもない、神の中の神たる彼のお方には。

 慈悲深くも寛大であり、それゆえに冷酷な彼には、他者を踏みつけなければ生きていけない地上の人間けものたちを、哀れみこそすれ理解することはできないのだ。


 ――きっと、この国は終わるのだろうな。


 古びた建物の窓の外には、建国以来変わらぬ緑の木々がある。

 彼女が愛した懐かしい土地を、焼きつけるように彼はしばらく見つめていた。


 ――いつかは来る日だった。


 天秤は振れた。

 これだけの猶予をもらいながら、人は価値を示すことができなかった。

 あとはただ、すべてが押し流されるのを待つだけだ――――。




 そう思っていた。

 懐かしくも輝かしい御身の、どこか抜けたような――言ってしまえば、ぽやっとした笑みを見るまでは。


「――アドラシオン、いつも世話をかけてすまない。正直に言うと困っていたんだ。ここには着るものがなく、かといって裸のまま外に出ることもできず……」


 心底ほっとしたように――それでいて、どことなく照れた様子で服を受け取る姿に、アドラシオンは瞬いた。

 もとより偉大な身の上ゆえに、鷹揚な性質を持ってはいたが、今の彼はそれともまた違う。

 絶対的な力を持つが故の、隔絶された雰囲気がない。

 震え、ひれ伏したくなるような威圧感もない。


 なにより――。


「……穢れを、失ってはおいでではないのですね?」

「ああ」


 アドラシオンの渡した服を着ながら、平然と頷く御身の中には、未だ恐ろしいほどの量の穢れが渦巻いていた。

 闇のようにどろりと重い人間たちの感情は、尊き体を染め上げることもできず、かといって拒絶もされず、ひどく中途半端な状態でさまよっている。


「記憶も、まだ完全ではないご様子。なのに、お姿を取り戻されたのか……」


 アドラシオン――と名前を呼ばれたのは久しぶりだ。

 だが、それ以上の記憶が戻っていないのは見て取れた。

 そもそも、彼が元の記憶を取り戻しているのなら――この国が無事のままでいるはずがないのだ。


 ――こんなことがあり得るのか。


 天秤の傾きは二つに一つ。

 御身が姿を取り戻すには、人の手で穢れをすべて払うか――あるいは寛大なその身にすら耐えられぬ穢れを溜めるかの、どちらかしかないはずだった。

 なのに、今の御身はどちらでもない。

 恐ろしいほどに不安定だが、穢れを持ちながら本来の姿を取り戻している。


 ――あの娘がいたからか。


 リディアーヌの友人であり、善良さこそは彼も認めているが――それだけの娘。

 魔力はほとんどなく、特別な才能も、優れた容姿もない。


 平凡なただの人の娘が、二つしかなかったこの国の未来に、もう一つの道を示そうとしているのだ。

 その事実に、アドラシオンは静かに心震わせ――。


 ――いや、待て。


 ふと、気が付いた。

 肝心の娘はどこだ。


「御前、あなたの聖女はどうされました?」


 偉大な神の住処としては、あまりにも狭い部屋の中。

 隠れる場所もないその空間を見回して、アドラシオンは眉をひそめた。

 部屋の中にいるのは、自分と偉大なる御身だけである。


「……エレノアさんは」


 その御身は、アドラシオンの問いに息を吐く。

 神をもってしても嘆息するほどの美貌は歪められ、輝く金の目は伏せられて、肩を落とす姿は――まさに、しょんぼりとしか言いようがなかった。


「…………逃げていってしまいました」


 知らないベッドで目を覚ましたら、見知らぬ男が裸で横たわっていたとあっては無理もない。

 ……なんてことは、アドラシオンは知らない。


 ただ、目の前でさらにしょんぼりとうなだれる姿を、どう受け止めればいいか分からず立ち尽くしていた。

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