29話 ※婚約者視点
どうして、とエリックは声にもならない声で叫んだ。
どうして、こんなことになったんだ。
「化け物! 化け物化け物! 誰か……だ、誰か……!!」
神殿の裏通り。木々が生い茂る道とも言えない道を、エリックは必死に走っていた。
周囲に人の姿はない。
あの無能神の部屋を出て以降、彼は一度も人とすれ違っていなかった。
背後からは、ねとねとと粘ついた『なにか』の音がする。
声一つ上げずに淡々と、なにかがエリックを追い立てている。
「やめろ……! 来るな……! どうして僕が……!!」
エリックの悲鳴を聞きつける者はいない。
もっと人気のある場所へ出たいと思っているのに、広い通りへ向かおうとするたびに化け物が先回りするのだ。
不自然に――誘導されるように暗い道ばかり走らせられていることを、しかし疑問に思う余裕はない。
すぐ背後に、化け物が迫ってきている。
もはや振り返らずとも、視界の端に化け物の姿は見えていた。
エリックに向けて手を伸ばし、今にも捕まえようとしているそれは――黒く、粘りつくような影だ。
大きさはエリックと同じくらいだろうか。
人に似た頭部と、二本の腕と足。遠目から見れば人のようだが、明らかに人でないことは、その崩れかけの輪郭が教えていた。
出来損ないの人間のように。
人間の影が形を持ったかのように。
それは執拗にエリックを追い立てながら、どこかへと向かっていた。
「なんだよ! なんで僕を狙うんだ! ぼ、僕がなにをしたって言うんだ!!」
足を止めることができず、エリックは走りながらも叫び続ける。
「まさか、あいつか! 無能神がやったのか!? 僕がノアを責めたから……!?」
それの報復として――罰として、あの化け物を遣わしたのだろうか。
思えば、化け物と無能神はよく似ている。
無能神の方がもう少し輪郭ははっきりしていたが、底なしの暗い色は変わらない。
吸い込まれそうな暗闇に――最後に聞いた無能神の冷たい声音に、肌がぞっと凍り付く。
「や、八つ当たりだ! 理不尽だ! 僕は悪くない! 悪いのはノアで、僕はアマルダのためにやったんだ!!」
そうだ、すべてはアマルダのため。
あの無垢で心優しい少女を守るためにやったこと。
アマルダの純真さに付けこみ、無能神を押し付けようとしたエレノアが悪いのだ。
『本当は、困っているのよ』
そう言いながら、エリックに笑みを向けたアマルダの姿を思い出す。
彼女に心を許されているのは自分だけ。
他の人間たちは、みんなアマルダにとって迷惑なのだ。
ならば、優しさゆえに断れないアマルダに代わって、エリックがどうにかしてやる必要があるだろう。
自分だけが――エリックだけが、アマルダの本心を理解しているのだから。
「アマルダのためだ! 僕はアマルダを守ったんだ! 僕だけが、アマルダを――――」
言いかけた言葉は、途中で切れた。
化け物に追われ、追い詰められた先。
たどり着いたのは――豪奢な屋敷の裏手だった。
生い茂る木々が途切れ、明るい日が差している。
その日差しを受け、明るい窓辺に、談笑する誰かの姿が見えた。
「――今日は、あのお坊ちゃまはいないんですね」
にたりと笑って話しかけているのは、彼女が『困っている』はずの若い神官。
彼の言葉を受け笑っているのは――窓に背を向けた後ろ姿でも、よくわかる。
亜麻色の髪をなびかせて、アマルダが無垢な笑顔を神官に向けていた。
化け物は、エリックのすぐ背後にいた。
ねちねちと音を立て、距離を詰めてきているのがわかる。
それでもエリックは、動くことができなかった。
話し合うアマルダと神官の言葉以外に、なにも頭に入らなかった。
伯爵家のお坊ちゃま――自分のことを話題に上げて、「そんなんじゃないのよ」とアマルダが笑う。
「私にはグランヴェリテ様がいらっしゃるのに、あの方、それでもいいってぐいぐい来るから」
いつか、エリックに向けたような、相手にだけ心を許したような笑みで。
「――本当は、ちょっと困っていたのよ」
立ち尽くしたエリックの指の先が、どろりとにじむ。
足元の影が黒く淀み、粘ついたように波打つ。
頭の中がぐらりと揺れ、思考が黒く塗りつぶされていく。
――どうして。
どろり。
彼の中から溢れるものが止まらない。
――どうして、アマルダ。僕が、僕だけが……。
「あまるだ、さ、ま、わたしだけが」
エリックの思考に呼応するように、背後の化け物が音を放つ。
それが、かつてアマルダを取り巻いていた神官と、同じ声音をしていることを、エリックは知らない。
そしておそらく、彼が知ることは永遠にないだろう。
「わたし、だけ、の、はずだったのに…………」
かすれた音を放ちながら、背後の化け物はあいまいな輪郭を崩し、大きく伸びあがり――。
エリックから滲みだした穢れごと、ぱちゅんと彼を呑みこんだ。
まるで、同化するかのように。
「…………?」
「どうされましたか、アマルダ様?」
不意に背後の窓を振り返ったアマルダに、談笑していた神官が問いかける。
アマルダは「いえ」と首を振り、少しだけ首を傾げた。
「なにか、物音がしたような気がしたの。でも、気のせいだったみたい」
窓の外は明るく、少し離れた木立の他にはなにも見えない。
風に木々がさやさやと揺れ、うごめく影を見つめてから、アマルダは首を振る。
「風の音かなにかだったのね。ごめんなさい、ちょっと気になっちゃっただけ」
「きっと風の精霊あたりが、アマルダ様の関心を引きたかったのでしょう。精霊の心まで奪うなんて、妬けてしまいますな」
冗談でもなさそうな神官の言葉に、アマルダはくすくすと笑う。
なにごともない、平和で愛すべき神殿の午後。
憂いなくソファに体を預ける彼女の背後で――。
木々の影に紛れて、暗い影がうごめく。
妙に暗く、粘つく影が、吸い込まれるように屋敷の中へ消えて行ったことに、アマルダは気が付かなかった
(4章終わり)
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