26話 ※神様視点

 どろり。

 慣れ親しんだ感触は、少しだけ肌に痛かった。

 頭の中に、無数の嘆きの声が響き渡る。

 これ以上はもう無理だと、理性では理解していた。


 だけど迷いはなかったし、後悔もなかった。

 静かに泣くエレノアの体を――彼は、あふれる穢れごと強く抱き寄せる。


「あなたを守れるようになりたい」


 穢れは、彼女が幼いころから抱き続けてきた悪意だ。

 見ないふりをして、平気な顔をして、聖女という夢に変えて、きれいなふりをしていた心の裏側。

 気が付いてしまった感情が穢れとなり、涙のように零れ落ちているのだ。


 かき消さずに受け止めたのは、しかし哀れみのためではない。

 神らしい憐憫にかられたわけではない。


 もっとずっと、利己的な感情だった。


「あなたが頼れる存在になりたい。他の誰のためにも、あなたが泣かずに済むように」


 口から出るのは、変化を望む言葉だ。

 変わらなくていいと思っていた日々は、もう戻らない。

 二人きりの穏やかなだけの生活では、足りなくなってしまった。


 エリックのために泣く彼女の姿を見ていたくなかった。

 自分ではない誰かのために、傷ついてほしくなかった。

 それだけの自分になりたかった。


 それは、本来ならば彼の持つことない感情だ。

 誰よりも高潔で、誰よりも慈悲深く――誰に対しても平等に、冷徹。

 完璧であるはずの彼を揺るがすのは、不完全な人の心だった。


 粘りつくような穢れが、彼の心を毒のように侵していく。

 頭に響く嫉妬の声が、彼に『特別』を覚えさせる。

 優越感の声が『彼女』と『それ以外』を区別させ、恨みの声が彼女を泣かせた相手への『嫌悪』を教える。

 吐き気がするほどの異物感に、胸がかき乱されていく。

 くもりない心は汚され、焼け付くように痛んでいる。

 それでもなお、彼はエレノアを手離そうとは思えなかった。


「あなたの心を受け止めたい」


 穢れた人々の嘆きの声が、彼の中で叫んでいる。

 それが人の心だ、と。


 不完全な人の中には、いつも痛みと苦しみがある。

 引き裂かれるような痛みの中で、心を砕かれる苦しみの中で――それでも譲れないものを抱えている。

 だから彼らは嘆くのだ。


「あなたの心を慰められる、私になりたいんです――エレノアさん」


 腰に回した腕に、知らず力がこもる。

 驚いて振り返ろうとする彼女の目元を、彼はもう一方の手で隠した。


「振り返らないでください。見苦しい姿をお見せしてしまいますから」


 壁に背を当て、エレノアを胸に抱きながら、彼は小さく首を振った。

 短い髪がゆるく揺れる。

 瞬きをすれば、長い暗闇が晴れていく。

 二つの瞳がずっと傍にいてくれた少女の、少し癖のある髪を映した。


「……神様?」


 違和感に戸惑う彼女に、見えないと知りつつも彼は笑みを浮かべた。

 それから一つ息を吐き、静かな部屋に、いつもの穏やかな声を落とす。


「今は泣いていてください。エレノアさんの心が晴れるまで」


 目元を覆う指先に、彼はかすかな熱を感じた。

 目じりに熱い涙を浮かべ、声を殺してこらえ、こらえ――。


 こらえきれずに、一つ涙がこぼれたとき。

 彼女はようやく、重い荷物を降ろすように、声を上げて泣き出した。

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