25話

 ――お父様、こっちを向いて。

 ――お兄様、私とも遊んで。

 ――お姉様、『気にしないで』なんて、できないわ。


 そんなことを言えるのは、お姉様に『アマルダがいなかったころ』の記憶があるからよ。


 ――私は知らないもの。


 優しかった父のことも覚えていない。

 一緒に遊んだ兄との思い出もない。

 母との記憶は、ほんの短い一瞬だけ。

 気が付いた時には私の傍にはアマルダがいて、家族の目はいつもアマルダに向かっていた。


 ――私を見て。


 いっぱい勉強して、良い子にしていてもだめ。

 たくさん困らせて、悪い子になってもだめ。

 怒っても泣いても、うんざりとした顔をされるだけ。

 あの子の愛らしさには、かなわない。


 でも、私だけの特別があれば。

 私が、アマルダよりも役に立つ存在になれば。

 前を向いて、必死になって、今までよりもがんばれば。

 アマルダよりもずっとずっと努力していれば――。


 ――誰か。


 きっと気づいてくれる。

 アマルダじゃなくて、私がここにいるって、わかってくれる。

 誰でもいい。誰か一人でも、世界に一人だけでも、きっと。


 ――誰か、私を見つけて。






「――エレノアさん」


 黒く粘りつく感情に埋もれ、子供のようにうつむく私に、優しく呼びかける声がする。

 身動きの取れない私の手を掴んだまま、声は静かに、二人だけの部屋に響く。


「ねえ、エレノアさん。私ではいけませんか?」


 ひやりとした感触が、私の指を撫でる。

 暗い闇の底から救い上げるように、彼は少しだけ強く握りしめる。

 痛くはなかった。ただ、痛いくらいに優しかった。


「私があなたを見つけます。私なら、どんなに暗い場所からでも見つけ出します。あなたが、私を見つけてくれたように」


 日の当たらない、薄暗い部屋の中。

 足元には、深い影が落ちていた。

 うなだれる私の影は見えない。それよりも、もっと大きなもう一つの影に呑まれている。

 いつもの彼よりもずっと大きなその影は、だけど今の私の目にはよく見えなかった。

 目の端が滲み、輪郭がぼやけているせいだ。


「あなたが――」


 あわい影の輪郭が揺れる。

 身じろぎでもするように、影はゆっくりと首を振る。

 まるで、人間がするように。


「あなたがこの暗い部屋で、誰も顧みない私を見てくれたように。立派な神でもない、役立たずの無能神である私の心に、気づいてくれたように」


 声は耳に近く、かすかな吐息に空気が揺れる。

 背中に触れる感触が、いつもと違うことに気付いていた。

 ぷるんとした柔らかさはなく、どこか硬く、骨ばっている。

 だけど、気にはならなかった。


「私も、あなたを見ていたい。あなたの孤独を慰めたい。それができるだけの存在になりたい」


 影が揺れる。

 顔を上げられない私を咎めず、無理に振り向かせようともせず――ただ遠慮がちに、彼は私に『手』を伸ばす。


「あなたが私に光を差してくれたように――私も、あなたの光になりたいんです」


 黒い闇の底。いつだったか、穢れに囚われた私を救いだしたように。

 彼は背後から、そっと私を抱き留めた。

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