12話 ※神様視点

 その日、彼はいつも通りにベッドの上で目を覚ました。

 カーテンの隙間からは、朝の光がいつものように差している。


 心地の良い朝の空気に少しまどろんでから、彼はベッドから立ち上った。

 そろそろ彼女が訪ねてくる時間だ。

 いつも通りに彼は扉に向かい、出迎えようと取っ手に手を伸ばし――。


 ――そういえば、今日は用事があると言っていた。


 その手を、彼は気恥ずかしさとともに引っ込めた。


 外からは、いつもの足音が聞こえてこない。

 今日は大事な用があり、部屋に来ることはできないのだと、彼女はずいぶん前から話をしていた。

 そのことを忘れてはいないし、そもそも承諾したのは彼自身だ。


 だというのに、つい扉の前に立ってしまった。

 気恥ずかしさに口を結ぶと、彼は誰もいないと知っていて、ごまかすように首を振る。


 ――彼女が来るのが、当たり前になってしまっていたから。


 それがいつも通りだから、すっかり習慣になってしまっていた。

 苦いような照れくさいような気持ちで、取っ手代わりに自分の手を握りしめると、そっと扉から目を逸らす。

 そのまま何気なく見やるのは、誰もいない室内だ。


 彼女が狭い狭いと文句を言う部屋も、一人だと少し広い。


 彼女が来る前は、この部屋はもっと広かった。

 朽ちた家具と埃にまみれ、足の踏み場すらもなくとも、彼にとっては寒々しいほどに空虚な空間だった。


 その空虚さを、彼女は埃とともに追い払ってしまった。

 代わり部屋に満ちたのは、慌ただしくて落ち着かない毎日だ。

 静けさを好む彼にとって、彼女との日々は少しばかり騒々しすぎるくらいだが――そんな生活が、彼は嫌いではなかった。


 ――エレノアさん。


 部屋の片隅。低い位置に置かれた食事と水差しを見つけて、彼は無意識に目を細める。

 おそらく、棚の上では手が届かないと思ったのだろう。

 直接床に置くのはためらわれたのか、白い布の上に置かれた水差しを、彼は少しかがんで手に取った。


 それから、彼は何気ない所作で、水差しをテーブルの上に置く。

 普段の彼であれば、伸びをしなければ手の届かない高さだが――そのことに、彼自身は違和感を覚えない。


 テーブルの上に手が届くのは、彼にとっては当たり前だ。

 彼が本当に『そうしたい』と思うならば、棚の一番上にも手を伸ばすことができるし、それで紅茶を淹れることもできる。

 むしろ、エレノアが驚いていたことに、彼の方が驚いたくらいだ。


 ――ああ、でも。


 思えば彼女に会う前まで、彼はほとんど『そうしたい』と思わなかった。

 暗い部屋の中、穢れに身を浸す日々を嘆いてはいても、それを変えたいとは望まない。

 変化に期待せず、ただ穢れに染まりきる日を待ち続けているだけだった。


 だけど、彼女と出会ってからは、ずいぶんと多くを望むようになった気がする。


 疲れた彼女を気遣いたい。

 少しでも、ここで過ごす時間を心地よく思ってほしい。

 そのために、上手に茶を淹れられるようになりたいなんて、今まで考えたこともなかった。

 おそらくは、記憶をなくす以前も、きっとなかっただろう。


 棚の奥の茶器を取り出しつつ、彼は小さく息を吐く。

 留守の間に練習すれば、明日の彼女は喜んでくれるだろうか――なんて思う自分自身がくすぐったく、落ち着かない。


 ――明日も。


 当たり前のように、彼は明日に期待していた。

 明後日も、その先も、彼女はいつものように部屋の扉を開け、引っ掻き回してくれるはずだ。


 ――ずっと、この生活が続けばいい。


 抱きはじめた望みの中でも、おそらくは一番強い望みを、彼は無意識に頭に浮かべていた。

 いつもならば、エレノアと二人で朝食でも取っている時間。

 慣れ切ったはずの孤独が、今はなんだか居心地が悪い。

 そう思う自分がおかしくて、彼は自分で笑ってしまった。

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