6話

 生まれてこの方、十七年。あと一か月で十八年。

 もちろん――と言ってしまうと悲しいが、残念ながらもちろん、私は父親以外の異性に抱きしめられた経験はない。


 それっぽいことと言えば、婚約者のエリックと舞踏会に参加した時、ダンスのために体を寄せたくらいだろうか。

 あのときは、だけど足を踏まないように踊るのに必死で、相手を意識なんてする余裕はなかった。


 でも、今は違う。

 静けさが満ち、時が止まったかのような部屋の中。

 体に触れるもちもちの感触に、私は声も出せずに立ち尽くしていた。


「……エレノアさん?」


 神様が不思議そうに私を窺い見る――ように震える。

 その振動も、私の服越しにふるふると伝わってくる。


「どうされました? ……もしかして、足でもひねりましたか?」


 気づかわしげな声にも、私は返事ができなかった。

 口をつぐみ、奥歯を噛み締め、まるで凍り付いたように固まりつつも――。


 ――あり得ないわ!!!!


 内心は大騒ぎだった。


 ――だって、もちっとしているのよ!? 手足もないのよ!? これ、抱きしめられるというよりも、むしろ取り込まれるって感じじゃない!?


 自分で自分の姿は見えないけれど、なんとなく想像はつく。

 多分今の私は、長く伸びた神様に――半ば、埋まっているような状況だ。


 傍から見れば完全に捕食。

 相手が魔物なら、このまま消化液を掛けられて溶かされているところである。


 ――ドキッとしていい絵面じゃないわよ、これ!?


 むしろこれ、ゾクッとする方が似合いの光景ではなかろうか。

 どう考えてもホラー。実際、怪奇小説の挿絵でこんな図を見たことがある。


 乙女として、こんな怪奇シーンでドキッとしてはいけない。

 してはいけないったら、いけないのだ!


「エレノアさん」

「なななんでしょう!? ドキッとなんてしていませんが!」

「ドキッと?」


 混乱して余計なことを口走る私を見やり、神様もまた困惑したように首を傾げる――ように体をひねる。

 そのひねる感触も伝わってきて、ますます距離の近さを感じさせられた。


「驚かせてしまいましたか? すみません、今日はエレノアさんにのんびりしていただくつもりでしたのに……」


 かえって落ち着かなくさせてしまいましたね――と言って、神様はこちらの気も知らず、申し訳なさそうに息を吐く。

 それから、気を切り替えるように小さく震えた。


「とにかく、一度座りましょうか。いつまでも立っていてもなんですから」


 そう告げる彼の声に、特別な響きはなかった。

 いつも通りの落ち着いた声。

 少し困ったような、柔らかくて穏やかな声音でそう言うと――。


 彼はその良く伸びる体をくねらせ、大きく広がった。


 ――えっ。


 と思った時にはもう遅い。

 神様の体が、私を頭から包み込む。


 それこそまさに――捕食しようとでもいうかのように。




 ――た、食べられ……!?



 今度こそゾクッとし、私は身を強張らせた。

 神様に限ってそんなはずは――と思いつつ、恐怖に震えたのは一瞬だ。


 感じたのは、足を持ち上げ背中を支える柔らかな感触。

 まるで抱え上げられるかのように、体が一度宙に浮く。


 そして、そのまま――黒い体は、私を椅子の上にそっと降ろした。


「新しくお茶を淹れましょう。エレノアさんはゆっくりなさってくださいね」


 神様の体がするすると私から離れ、目の前で縮んでいく。

 長く伸びた体は、見る間に元のまん丸な姿に戻り、なんいうこともないようにぷるんと揺れた。


「…………」


 私はいまだ現実感がなく、椅子の上で呆けていた。


 ――抱き上げられた……?


 いや、あれを『抱き上げた』と認識していいのだろうか。

 だって、ただの黒い塊が伸びただけ。

 肌に残る感触も、人間の腕とはまるで違う。

 一切の硬さのない、ひやりとした弾力だけを覚えている。


 ――やっぱり、おかしいわよ。


 私の視界から消え、背後に回った神様が、お茶の葉を探す物音がする。

 いつものもっちりとした気配とは違う気がしたけれど、今は振り返ることができなかった。


 ――ドキドキする状況じゃないわ。ホラーよ、ホラー!


 おまけに神様自身は、まるで気にした様子はない。

 捕食する気どころか、特別な意味なんてなにもなく、単純に私を持ち上げて降ろしただけなのだ。


 だからこれは、なんということもない。

 ドキッとしているのは驚いているだけだ。

 そう言い聞かせながら、私はすっかり冷めた飲みかけのカップに手を伸ばした。


 気を落ち着かせようと、一口紅茶を飲んだけど――美味しかったはずの紅茶の味が、今はさっぱりわからなかった。

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