51話 ※聖女視点(ロザリー)

 まるで、感情のなにもかもが失われたようだった。

 重たい瞼を持ち上げ、ロザリーは呆然と見覚えのない天井を見つめ続ける。


 どうしてここにいるのだろう。なぜ自分はここに横たわっているのだろう。

 そんな疑問さえも頭には浮かばない。

 ただ事実として自分がどこかに横たわり、知らない部屋にいるということだけが理解できる。


「…………」


 周囲は騒がしかった。

 ロザリーの周りで、医者や神官たちが忙しなく走り回っている。

 ロザリーの目覚めを待っているらしい声も聞こえたが、それでどうしようという気にもならなかった。


 頭の中にはなにもない。

 あれほど心に満ちていた妬みも、他をすべて蹴落とし、神殿の頂点に立ちたいという野心も、息をするように抱いていた他人への蔑みも――善き聖女でありたいという、ささやかな願いも、すべて消え失せていた。


 いや。

 一つだけ、かすかに残っているものがある。


 ――ルフレ様。


 怒りでもなく執心でもなく、あるいは会いたいという具体的な欲でもない。

 ただ、なにもない彼女の心を、さざ波のように揺らしているだけだ。


 だけどそれが、今の彼女のすべてだった。

 空虚な眠りの底から目を覚まさせる、唯一の想いだった。


「――――ロザリー・フォレ! 目を覚ましたのか!?」


 ベッドに横たわったまま、口も開かず、身じろぎもしないロザリーを見て、神官のうちの一人が声を上げた。

 途端に、周囲にいた人々が集まってくる。

 いったいなにがあったのか、穢れを生み出したというのは本当なのか、なにが原因でそうなったのか。

 口々の問いに、しかしロザリーは言葉を返せない。

 ただ天井を見つめ、ゆっくりと瞬きながら声を聞き流すだけだったが――。


 ふと、聞こえてきた声が止んだ。

 代わりに、誰かの足音がする。


 なんだろう――と思ったわけではない。

 ただ反射のように、彼女は視線を天井から移動させた。


「――ロザリーちゃん」


 視線の先にいたのは、見覚えのある少女だった。

 かつてはさんざん『芋女』と馬鹿にしていた、最高神の聖女――アマルダだ。

 ロザリーに会いに来たのだろう。

 彼女はロザリーの姿を見つけると、人でごった返した部屋の中に足を踏み入れる。


 神官たちが、慌ててアマルダのために道を開けた。

 左右に避ける神官たちを見て、アマルダがふと微笑む。

 少し困ったような、それでいて当たり前と言いたげな笑みを浮かべると――彼女は一番傍にいた若い神官に向けて、「ありがとう」と告げた。


 彼女にとって、その礼にたいした意味はないのだろう。

 ただ、彼が一番近くにいただけだ。

 だけどその瞬間、周囲の空気が変わったことに、ロザリーは気が付いた。


 ――あ……。


 反射的に、体が震える。

 アマルダが怖いのではない。

 彼女の周囲を取り巻くものを――心は失せても、体が覚えている。


 若い神官に向けられた、嫉妬と羨望。

 アマルダに向けられる執心と身勝手な憤り。

 どろりとアマルダに粘りつく、目に見えないなにか。


 その存在に、アマルダ本人も神官たちも気付いてはいない。

 無数の視線を気にも留めずに、アマルダはロザリーのベッドの前まで歩み寄る。


「目を覚ましたのね、ロザリーちゃん」


 ベッドの前で立ち止まると、彼女は椅子に腰かけもせずにそう言った。


「神官様から聞いて、慌てて来たの。無事でよかった。本当に心配してたんだから。だって、あなたとは友達だったから」


 ふふ、と彼女はロザリーに笑みを向ける。

 いたわるように優しい表情を浮かべてみせてから、しかし彼女はすぐに首を横に振った。


「でも、ね、ロザリーちゃん。――いいえ、ロザリーさん」


 一度目を伏せ、ゆっくりと瞬き――顔を上げたアマルダに、もう笑みはなかった。

 青い瞳は静かに、どこか冷たくロザリーを見据えている。


「友達だったとしても、話すことは、きちんと話しておかないといけないわよね。……あなたが倒れている間に、こんなことも聞いたの。ロザリーさんが穢れを生み出して、リディアーヌさんを襲ったって。あなたに襲われたリディアーヌさんを助けたのが、ルフレ様だったってことも」


「…………あ」


 どうして声が出たのかは、ロザリー自身にもわからない。

 アマルダはロザリーのかすかな反応には見向きもせず、一人口元に手を当てた。

 眉根を寄せ、迷うように視線をさまよわせる姿は、いかにも『言いにくいことを言うべきか迷っている』ように見える。

 だけど、その迷いを振り切り、彼女は顔を上げた。


「私、ロザリーさんのことを信じていたわ。リディアーヌさんのことも、私は本当は迷っていたのだけれど……あなたの言葉を信じたからこそ、声を上げたの。……でも、事実は逆だったみたいね」


 顔に浮かぶのは、毅然とした表情だ。

 どこか傷ついたように眉根を寄せつつも、彼女はロザリーを見下ろして胸を張る。


「ロザリーさん、あなたには失望しました。友達だったとはいえ、許すことはできません。私を騙しただけではなく、穢れを生み出し、リディアーヌさんを傷つけようとしたこと。そんなあなたの穢れた心を見抜けなかった私にも非があります」


 凛とした声が部屋に響く。

 一見大人しそうな外見には似合わない、確固とした彼女の声音に、神官たちから「おお」と感嘆の声が上がった。

 自分が傷つきながらも、友人のために事実を突きつける――なんて、まさしく聖女というべき姿だ。


 背後の声を背負い、自分を見据える彼女の姿に、ロザリーは知らず瞬く。

 頭に浮かぶのは、いつだったかアマルダに抱いた感情だ。


 ――頭が悪くて、適当に褒めればすぐにつけあがる……。


 なにも知らずにロザリーに利用されるだけの、ヒロイン気取りの馬鹿な芋娘。

 リディアーヌよりも扱いやすい田舎娘を、上手く使っていたと思っていたのに――。


「神殿から、ロザリーさんにはなにかしらの沙汰が下るでしょう。穢れの問題だけではなく、リディアーヌさんのことも含めて、いろいろと責任があるでしょうから」


 突き付けられた言葉に理解する。

 逆だ。

 なにも知らず、上手く使われたのはロザリーの方だ。


「きっと、もう神殿で会うこともできないわね。いい友達だったのに……本当に残念だわ」


 利用価値のなくなったロザリーを、アマルダは容赦なく、ためらいもなく――息をするかのように、ごく当たり前に切り捨てた。




(3章終わり)

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