50話 ※ルフレ視点
自然と口から出た言葉は、重たい響きではなかったはずだ。
軽口の一つのようにさりげなくて、聞き逃しても無理はなかった、はずだった。
だけどエレノアは、聞き返すこともしないし、笑い飛ばしもしなかった。
ただ、驚いた顔でルフレを見上げるだけだ。
「ルフレ様…………」
そう言ったきり、続く言葉もない。
驚きの表情は少しずつ消え、代わりに彼女は唇を引き結び、難しそうに眉根を寄せる。
妙に真剣な彼女の様子に、ルフレの方こそ戸惑ってしまった。
――どんな顔してんだよ、俺。
自分の表情が、自分自身でもわからない。
歪んでいる気もするし、笑っている気もする。
エレノアを目に映したまま、知らず口が曲がるが、どういう形に曲がったのかも知れなかった。
エレノアが黙り、ルフレも黙れば、周囲に満ちるのは静寂だけだ。
風も止み、木々のざわめきも消え、痛いくらいの静けさがルフレを刺す。
いっそ笑い飛ばしてほしかった。
だけど笑わず、真面目な顔で受け止め、悩んでくれている彼女が――嬉しかった。
答えなんて、最初から分かっていたのに。
「……ごめんなさい」
長い沈黙の後で、彼女は顏と同じくらい真面目な声でそう言った。
予想した通りの答えに、ルフレはくしゃりと表情を歪める。
まるで笑むような歪み方だけど、笑っていないことだけは自分でもよくわかった。
「……なんだよ。エレノアのくせに、俺じゃ不満かよ」
ふん、と鼻で息を吐くと、ルフレは表情を隠すようにそっぽを向いた。
エレノアの姿が見えなくなれば、苦々しさはますます募っていく。
くそっ、と内心で吐き捨てると、彼は誤魔化すように声を上げた。
「あーあ、見る目ねーの! こんな、めちゃめちゃいい男、他にいねーぞ!」
「……そうね」
ふざけたつもりの言葉に、しかし思いがけず肯定が返ってくる。
「私もそう思う。いつもふざけてばっかりだけど、ルフレ様が本当は立派な神様だってこと、今日のことでよくわかったわ」
耳に響くのは、馬鹿みたいに真摯な声だ。
聞きたくもないのに、静寂の中で彼女の声だけが響き渡る。
「自分が弱っているのに助けに来てくれて、他の神々が見捨てた人間を、まだルフレ様が見捨てないでいてくれているんだってこと、よくわかった。普段はほんと生意気で、腹が立つけど――やっぱりルフレ様は神様なんだって思ったわ」
彼女の言葉を止めるすべがわからなかった。
口を開くことさえできず、ルフレは奥歯を噛む。
生意気で、腹が立つのはルフレも同じだ。
普段はふざけているくせに――こういうときばっかり。
「私を聖女にしたいと思ってもらえたこと、本当にすごく嬉しいの。……きっと、もっと別の時に聞いていたら、喜んで受けたと思うわ」
――別の時に。
別の時に声をかけていれば、なにか変っただろうか。
もう少し早く告げていれば、もう少し出会うのが早ければ。あるいは、もう少し態度を変えて、神らしく接していれば。
頭の中に、無数の後悔が浮かぶ。
だけどすべて、無意味な想像だ。
別の時なんてない。
『こう』でなければ、ルフレはエレノアを聖女にしたいとは思わなかった。
だから彼女の返事はわかっていた。
「でも、私には神様が――クレイル様がいるから」
いまだ迷いのある表情で、だけど確かな声で、彼女はそう言った。
「代理でなった聖女だけど、正直、いつまで神殿にいるのか自分でもわからない状況だけど――それでも、神殿にいられるうちは、神様の力になりたいと思うの」
「…………」
「だから、ルフレ様の聖女にはなれません。……ありがとう。でも、ごめんなさい」
うんざりするほど真剣な声が、夜の空に消えていく。
ルフレは両手を握り、少しの間無言で唇を噛みしめた。
――……あーあ。
最初のきっかけは、彼女が『あの方』の聖女候補になったからだ。
本当に選んだ相手ではなく、押し付けられただけ。それなのに、醜く忌み嫌われる『無能神』の聖女を続けようなんて、どんな奴かと見に行っただけ。
そうでもなければ、魔力もろくにない人間の少女に、興味を抱くことすらなかった。
他の神に誘われて、迷わず仕える神を変えられる相手なら、こんな思いを抱くこともなかった。
――ばーか。
誰に向けたのかもわからない言葉を胸で吐き、彼は一度、小さく頭を振った。
それからようやく、逸らした顔をもう一度エレノアに向ける。
――……似合わねー顔しやがって。
深刻に、いかにも思いつめたような彼女の表情に、ルフレは顔をしかめた。
真剣に考えてくれてうれしい。自分を選ばない彼女が憎らしい。あの方が羨ましくて、悔しい。
言いたいことは山のようにあったけれど――。
すべてを心の奥に隠し、彼は大きく息を吸う。
「――なに本気にしてんだよ! 馬鹿じゃねーの!?」
静寂の夜、張り詰めた空気にひびが入る。
ルフレの声は、今度こそいつも通りのふざけたものだ。
表情は生意気な少年そのもの。
口を曲げ、不敵に笑えば、エレノアが呆けたように瞬いた。
「……は?」
「冗談に決まってんだろ! 誰がお前みたいな魔力もない聖女なんて選ぶかよ! 真面目に考えてんじゃねーよ!」
「は? え? ルフレ様!?」
「まじめすぎて逆にビビったわ! 冗談通じなさすぎてやべーだろ!」
勢い任せに言い捨てれば、戸惑うエレノアの表情が変わっていく。
信じられない、とでも言いたげに目を見開いた彼女の顔は、ルフレの見慣れたものだった。
「は……はあああ!? 冗談って、こっちは真剣に答えたのよ!? なにその態度!!」
肩を怒らせるエレノアに、かえってルフレは力が抜けた。
悔しいくらいに居心地の良い、馴染んだ空気が夜に満ちる。
静けさは、もう消えていた。
「うっせえ! 騙される方が悪いんだよ!」
「騙す方が悪いに決まってるでしょう! ――って、待ちなさい!!」
などと言うエレノアの声を聞かず、ルフレは彼女に背を向けた。
地面を蹴れば、体がふわりと宙に浮く。
わめくエレノアを見下ろして、彼は鼻で笑ってみせた。
「誰が待つかよ!」
はん、と吐き捨てると、彼は渾身の思いを込めて叫ぶ。
悔しさも、負け惜しみも、言葉にできない無数の感情も、すべて込めて。
「断ったこと、後悔しろ! ブ――――ス!!!!」
見上げた空には、鮮やかな星が瞬いている。
星々に紛れるように、彼は上空へ向けて駆けだした。
微かににじんだ星の色は、きれいだった。
きれいすぎて、腹が立つくらいだ。
「くっそ――――!!」
星なんかよりもずっと、彼女の方がきれいだなんて、言えるはずがなかった。
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