42話

「――あああああ! ……あ、あれ?」


 痛くない。

 転んでいない。

 トレーも手から落ちていない。


 たしかに足を滑らせたはずなのに、私は転ぶことなく――前のめりのまま、誰かの腕に支えられていた。

 

 ――腕……?


「……本当に、あなたは危なっかしい方です」


 瞬く私の耳元に、苦笑交じりの声が聞こえてくる。

 私を抱き留める腕に力が込められ、背中が誰かの体に当たる。

 私よりもずっと大きくて、少しだけ体温が低いけれど――まぎれもない、人の体だ。


「目を離すことができませんね、エレノアさんは」


 呆れたようでいて、その声は優しい。

 低く、冷たいくらいに澄んだ声音に、私は聞き覚えがあった。


「神様……?」

「はい」


 穏やかな返事が聞こえたときには、私を支える腕は消えていた。

 背中に触れていた、誰かの体も今はない。

 私は一人、自分の足で立ち、トレーを握りしめているだけだ。


「なんでしょうか、エレノアさん」


 呆然と振り返る私に、いつも通りの――まるい体の神様が、ぷるんと震えながらそう言った。

 黒くつややかな表面には、もちろん腕なんてないし、人の体もない。

 私よりも背は低く、腰のあたりまでしかない。


「…………」


 首を傾げる神様には答えず、私は無言でトレーを床に置いた。

 返事のない私に神様が首を傾げる――ようなしぐさをする。

 その姿を、私はしばし言葉もなく見つめた。


「……あの? どうされました?」

「…………」

「エレノアさん?」

「………………」


 つんっ。


「あうっ」


 つんつんつん。


「あっ、あっ、なにをなさるんですか!?」


 無言でつつく私に、神様が小さな悲鳴を上げた。

 その姿も、やはりいつも通りだ。

 なんだか夢でも見ていたような気がしてくる。


 ――……でも、夢じゃないわ。


 体に、まだ感触が残っている。

 私を支えた腕と、大きな体の感触。

 それも、一度だけじゃない。穢れに襲われたときだって――たぶんそれよりももっと前、はじめて穢れに触れたときも、私は彼の腕に助けられていた。


「……神様って」


 困ったように震え、私から距離を取る神様を見やり、私はほとんど無意識に口を開いていた。


「もしかして、実はすごくイケメンだったりしませんか?」

「えっ。……い、いえ、そんなことはないと思いますが」


 私のぶしつけな問いに、神様はますます困惑したようにぷるんと揺れる。

 どことなく申し訳なさそうなその様子に、私は一つ息を吐いた。


 ――なんだ。


 がっかりしているのか、そうでもないのかは、自分でもよくわからなかった。

 穢れを払って、もしも彼が本当の姿を取り戻したとき――それがイケメンだったら、もちろんその方が嬉しい。

 だけどきっと、今の姿と変わらなくても、あるいはもっと醜い姿に変わっても、それはそれで良いのだと思う。


 ――だって、神様は神様だから。


 別にイケメンじゃなくたって、人の姿でなくたって、私は神様なら――。


 ――なら?


 その先に続けようとした言葉に、私の思考が停止する。

 神様なら――なんだって?


 ……。

 …………。


 ――いやいやいや!! なに考えてるの!?


 ぴしゃりと両手で頬を打ち、私は自分の思考を強制的に中断させた。

 その叩いた頬が熱を持っていることに気づき、私は慌てて首を振る。

 いつだったか、『神様が人の姿だったら』なんて思ったことがあるけど、さらにハードルが下がっている!


 ――そんなはずは……!


 ない、と言い切れない自分にますます混乱する。

 だってそんな。まさかそんな――。


「エレノアさん?」

「ひゃい!?」


 突然に呼びかけられ、口から変な声が出た。

 神様は不思議そうに首を傾げつつ、これまたいつも通りの、のんびりとした声でこう言った。


「温かいうちに食事にするのでしょう? せっかく用意してくださったのに、そろそろ冷めてしまいますよ」


 こちらの気も知らず、落ち着いた様子の神様が憎らしい。

 悔しさに指でつつけば、神様は例によって、苦笑でもするようにぷるんと震えた。

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