35話

 視界を覆う穢れは、一瞬にして消え失せた。

 手足に粘りついていた穢れも、今は痕跡すらもない。

 午後の日差しがまぶしい。穢れの暗闇から急に光を浴びせられ、私は眩しさに顔をしかめた。


 その私を、背後から抱き支える誰かが覗き込む。

 逆光で顔が良く見えない。ただ、端正な輪郭と、薄く笑む口元だけが見えた――気がした。


「――エレノアさん。もう大丈夫です。あなたが無事でよかった」


 おっとりとした声が耳に響いた。

 ほっとするようで、どこか怖い。やわらかいはずの声に、なぜだか身を震わせた、次の瞬間。


 私の背中を支える力が、これもまた一瞬にして消えた。

 力が抜け、すっかり体重を預けていた私は、そのまま背中から倒れ込み――。


 ぽよん、とやわらかいなにかの上に落ちた。


 ――…………ぽよん?


 背中にあるのは、そこらのクッションよりも心地よい、ぷにぷにでもちもちの感触だ。

 ちょっと手で触れてみれば、滑らかな表面に指がぷにっと沈んでいく。

 さわさわ撫でれば、「あっあっ」と焦ったような声が聞こえた。


「や、やめてください、エレノアさん! くすぐったいです!」

「……神様?」


 いつもと変わらない神様の声に、私は呆然とつぶやいた。

 なんだか妙に気が抜ける。

 夢でも見ていたような気分だ。


 ――穢れに押し潰された気がしたのに……。


 その直前、私はたしかに神様の声を聞いた。

 聞き慣れた優しい声に安心して、倒れそうになる私を、彼の『腕』が背後から支えてくれたことを覚えている。

 その後の記憶はあいまいだ。誰かの声や悲鳴を聞いたような気もするけど、気のせいだったような気もする。


 意識がはっきりしたのは視界が明るくなったあと。

 気がつけば穢れは消え、背中を支える腕もなくなっていた。


「……ええと」


 背後を見やれば、私の体につぶされ、平べったく伸びた神様が見える。

 人の姿ではもちろんなく、腕も顔もない、黒くてまるい、いつもの神様だ。

 私の視線に気づいて、彼は笑うようにぷるんと震えた。


 ――よく、わからないけど。


 ひとつだけ、はっきりとしていることがある。


 私は疲れた体に力を込めると、神様の上から身を起こした。

 それから彼に向き直り、まるくて黒い体をまっすぐに見つめる。


「ありがとうございます。神様が、助けてくださったんですよね?」

「はい。……正直に言うと、自分でもなにが起こったのかはよくわからないのですが」


 私の言葉に、神様は例によって困ったような――あるいは、照れたようなしぐさで身を震わせた。

 だけどそれも一瞬のことだ。彼はすぐに震えを止めると――。


「あなたを必ず守ると、約束しましたから」


 いつものようにぽやっとした――それでいて、真摯な声でそう言った。


 ――ぐ。


 ぐぬぬ、と内心で呻いてしまうのはなぜだろう。

 なんだか妙に悔しい。それでいて、妙に落ち着かない。

 人の形ですらないまるい体を見ていられず、私はそわそわと視線をさまよわせる。


 そんな私の様子を、神様がなんということもないように見ている――気がするのも、悔しかった。


 ――ぐぬぬぬぬ……。


「あっあっ、え、エレノアさん! やめてくださいってば!」


 八つ当たりで私に摘ままれた神様が悲鳴を上げた。

 身をよじらせて私から距離を取ると、諌めるようにこう続ける。


「そ、それよりも、このあとのことですよ! どうするんですか?」

「……このあと?」

「ええ、なんだかたいへんなことになっているようですが」


 と言って、彼は周囲を見回すようなしぐさをした。

 私もつられて周囲に目を向け――。


 彼の言葉の意味を理解した。


 ――どうしよう……。


 視界に映るのは、倒れた五つの体だ。

 うち四つは、一緒に逃げ回っていた四人。リディアーヌとルフレ様に、取り巻き二人。

 残る一つは――眠るように目を閉じ、静かに呼吸するロザリーだった。

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