34話 ※神様視点

 力が抜けたのか、崩れ落ちようとしている彼女の体を、『彼』は片腕で抱き支えた。

 視線を落とせば、癖のある栗毛色の髪が目に入る。

 想像よりもずっと細くて小さな体に、彼は目を細めた。


 ――こんな顔をしていたのか。


 こちらを押し潰そうとする穢れと、怯えた人間たちに囲まれて、真っ先に抱いたのはそんな感想だった。

 強くてたくましい女性ばかりを想像していたけれど、実際の彼女は驚くほどに普通の少女だ。腕の中の体は軽く、あの弾けるような力がどこにあるのかと不思議に思える。


「……神様? どうして?」


 おそるおそる呼びかける声に、彼は微笑みを返した。

 もっとも、覆いかぶさる穢れの下では、こちらの姿は見えていないだろう。

 それは少しだけ、残念だった。


「あなたの声が聞こえて、駆けてきました。間に合ってよかったです」


 そう答えれば、彼女は安心したように力を失った。

 素直に預けられた体重に、彼はくすりと笑みを漏らす。

 本当に、間に合ってよかった――などと思う自分が奇妙で仕方がない。


 あの小さな部屋の中で、彼は救いを求める声を聞いた。

 動けない体を呪い、彼女の元に駆けつけたいと心底から思ったときには、彼の姿は変わっていた。

 そのことを、彼は疑問には思わない。

 元より、『そういうもの』として自らを戒めていた。


 戻ろうと思えば、いくらでも元の姿に戻ることはできる。

 それを、あの姿の自分自身が忘れているというだけ。

 忘れたまま自らを寛容さで縛り付け、それでもなお戻りたいと彼自身が願うか――あるいは、正しく彼を元の姿に戻せるか。

 天秤の役割を、自ら請け負ったというだけの話だ。


 もっとも、今回は一時的なものだと、彼自身も気が付いている。

 己が願ったのは、彼女の危機を救うことだ。

 目の前の穢れを排除すれば、再び異形の姿に変わることだろう。


 惜しい気もした。

 そう思わせる彼女の存在が不思議だった。

 これではまるきり、人の思考だ。

 そんなものを、彼がもつはずがないというのに。


「あ――――」


 ふと、かすれた声が聞こえた。

 視線を向ければ、見知った顔がある。

 地上を照らす光の子、ルフレだ。


「――――様」


 穢れに半ば呑まれ、黒く染まるルフレの姿に、彼はかすかに眉根を寄せる。

 ただでさえ穢れをためていたのに、これ以上引き受けては、彼の身がもたない。


「だめ、だめです。――様」


 穢れに向けて手を伸ばす彼に、ルフレが首を振る。

 彼を止めようと身をよじるが、穢れから抜け出すことができないようだ。


 ――私を止めようとするのか。


 彼は苦笑するように息を吐いた。

 やはり、彼らは優しすぎる。


「やめてくだい、――様! 俺がなんとかします! だからどうか――」


 ――私と違って。


 あまりにも優しすぎる。


「どうか、こいつの穢れを消さないでやってください! ろくでもないやつだけど、嫌な女だけど、でも!」


 穢れの中で、ルフレの必死の叫び声が響く。命乞いでもするかのように。


「でも――穢れは人の心なんです!!」


 魔力によって穢れを払うことを、『浄化』と呼ぶには理由がある。

 穢れは人の心。もがき苦しむ人々の、受け止めきれない強い思い。それを人の手によって慰め、昇華させるからこそ浄化なのだ。


 だけどそれ以外にも、穢れを払う方法はある。

 もっと単純で――もっと残酷な方法が。


 彼は寛容で慈悲深い神だ。

 無為な殺生も、誰かを傷つけることも望まない。

 多くを憐れみ、許し、あるがままの存在を認めている。


 しかし、決して優しい神ではなかった。

 ルフレのように無為に――ただ善意で穢れを引き受けることはしない。

 いつ浄化できるかもわからない穢れを、人の心を守るためだけに、延々と受け止め続けるつもりはない。


 目の前に不要な穢れがあるのであれば――払うことに躊躇はない。


 指の先が穢れに触れる。

 すっかり慣れた粘りつく感触を、彼は引き受けることなく――――。


「ゆ、る、ざ、あ、あ……ああ……。る、ふれ、さま…………!!」


 断末魔の悲鳴と共に、一瞬にしてかき消した。

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