33話

 神様の部屋は、テラスからはそこまで遠くない。

 同じ神殿の外れ同士。神殿中央部にある神殿兵の詰所に向かうよりも、かえって近いくらいだ。


 背後の穢れは、引き離せはしないけれど、追いつかれてもいない。

 図体が大きいからか、上空を吹く向かい風や、足元の茂みに引っかかって、ときどき足を止めてくれるおかげだ。

 風なんて吹いているようには見えないのに――と一瞬疑問に思うが、すぐに首を振る。

 考えるのは後回しだ。

 顔を上げれば、遠くに神様の家が見えている。


 ――あと少し……!


 重たい足に力を込め、私は荒く息を吐く。

 追いかけられてからさほど時間は経っていないのに、もう丸一日走り続けているような気分だ。


 ――だけど、もう少し。あと少しで……!


 あのぷるんとした黒い姿に会える。

 逃げてくる私たちを見て、彼はどうするだろう。

 驚き、戸惑うかもしれない。困らせてしまうかもしれない。

 だけど彼なら――きっと困りながらも、見捨てないでいてくれる。


 ――神様!!!!




「――――に、が、ざないぃいいいいいいいい」


 抱いた期待は、背後で聞こえる咆哮にかき消された。

 ぞくりとして振り返った瞬間、伸びあがった穢れが腕を振り下ろしてくる。

 向かい風も、絡みつく足元の茂みも、穢れを止めることはできない。


 黒い腕がまっすぐに地面に打ち付けられ――――。


「ソフィ!!」


 遅れがちだったソフィの体を呑む。

 地面に転がり、半身を黒い穢れに覆われたソフィに、全員の足が止まった。


「馬鹿! なにやってんのよ!」


 思わず駆け戻り、私はソフィの片腕を掴む。

 反対の腕をもう一人の取り巻きが、肩をリディアーヌが掴んで引っ張るが、粘りつく穢れから引き離せない。

 ルフレ様が素手で穢れを引き離そうとしているが、そうしている間にも彼の手の方が黒く染まっていく。


「ソフィ! ソフィ、ねえ!!」


 取り巻きが声をかけても、ソフィからの返事はない。

 ぐったりとしたまま動かない彼女に、取り巻きの顔が歪む。


「やだ! やだ!! ソフィ!!」

「落ち着いて! とにかく引っ張り出すのよ!!」


 取り乱す取り巻きを、リディアーヌが励ますように叱咤する。


「同時に力を込めましょう! せえの、で…………」


 だけど、その言葉さえも途中で切れた。

 上天気の空の下。急に頭上に影が落ちる。

 ひやりとした風と、かすかな悪臭。

 それから。


「づがまえだ」


 聞こえるのは、ごぽごぽと泡立つ音に、笑うような声。

 おそるおそる顔を上げれば、こちらを覗き込む穢れが、口を曲げて笑った――気がした。


 その笑みも、しかしもう見えない。

 代わりに迫ってくるのは、もう一方の穢れの手だ。

 ゆっくりと落ちてくる黒い手を、私は瞬きもせずに見上げていた。


「あ――――」


 あと少しだったのに。

 もう目の前だったのに。


 ――ここまで来たのに。


「……神様」


 黒い手に圧しつぶされる寸前。頭に浮かぶのは、やっぱり彼のことだった。

 とても頼りになりそうにないのに。最弱の無能神と呼ばれているのに。せっかく浄化した穢れを、また増やしてしまうかもしれないのに。

 魔法の爆発に巻き込まれたときさえも、口から出なかった言葉が出る。


「助けて、神様――――!!」





「――――はい」


 不意に、妙にぽやっとした声が響く。

 場違いなくらいに穏やかで、柔らかく、優しい声の誰かの『腕』が――。


「もう大丈夫です。よく頑張りましたね」


 私を背後から抱き留めていた。

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