32話

「エレノア! 逃げるってどこに!? アドラシオン様は、今は神殿を留守にしていらっしゃるのよ!」


 テラスを飛び出し、先頭を走る私を追いかけながら、リディアーヌが慌てて叫んだ。

 背後を見やれば、リディアーヌに取り巻き二人、ルフレ様もついてきている。

 そのさらに後ろにいるのは、穢れとなったロザリーだ。

 テラスを囲う木立をなぎ倒しながら、四足でべたべたと追いかけてくる。


「ゆるざない、い、いいいいいいい――――!!」


 聞こえてくるのは、もはや声にもならない咆哮だ。

 口を開き、体を揺さぶるたび、彼女の体から黒い飛沫が散る。

 粘りつくような穢れの飛沫は、周囲にこびりつき、触れたものをことごとく黒く染め上げていた。


「おい! 絶対に触るんじゃねーぞ! 人間がそのまま穢れに触れたら、ただじゃすまないからな!」


 遅れがちな取り巻き二人をかばい、飛んでくる穢れを腕で防ぎながら、最後尾のルフレ様が叫ぶ。

 人間はただじゃすまない――と言ったが、神である彼が無事であるようにも見えない。

 穢れに触れ、黒く変色した腕を一瞥し、ルフレ様が「くそっ!」と吐き捨てる。


「どうすんだよ、お前! こっちも長くはもたねーぞ! 無闇に逃げたっていずれ追いつかれるだけだ!!」


 ――どうする。


 その問いかけに、私は答えられなかった。

 どこに逃げるか、どうするか、そんなことを考える余裕はない。

 テラスを逃げ出したときは必死だったし、走っている今も頭なんて回らない。


 本当はきっと、神官に訴えるとか、神殿兵に助けを求めるとか、考えられることは会ったのだろう。

 だけどこのとき、この瞬間。私の頭にあるのは一つだけだった。


『――エレノアさん』


 耳の奥に響くのは、柔らかくて、どことなくぽやっとした声。

 とても頼りになりそうにない、まるい体をぷるんと震わせ――最弱と名高い彼が、真っ直ぐに告げた言葉だ。


『私が、必ずエレノアさんを守りますよ』


 ――神様。


 荒い息を吐き出すと、私は両手を握りしめた。

 顔を上げ、ぐっと見据える先は、神様の部屋がある方角だ。


 すぐ後ろには、穢れが迫っている。

 穢れの叫びと、取り巻きたちの悲鳴。

 リディアーヌの焦りと、穢れを受けるルフレ様。

 木立は切れ間なく、神殿の中心部も遠い。

 今ここで穢れに捕まれば、悲鳴さえも誰も聞き届けてはくれないだろう。


 想像するだけでぞくりとする。

 怖くて怖くて仕方がないし、今にも足が竦んで動けなくなりそうだ。


 ――でも。


 神様が、『守る』と言ってくれた。

 そのことが、私の足を動かしている。


 ――きっと大丈夫。……いえ、絶対に大丈夫!


 内心の不安を打ち消すように、私はぱちんと両手で頬を叩いた。

 それから、背後の四人に向けてこう叫ぶ。


「こっちよ! こっちに逃げるわ!」


 口から出るのは、場違いなくらいに明るい声だ。

 自分自身も勇気づけるように、私は大きく手を振ってみせる。


「大丈夫! 私についてきて!!」

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