31話

「――ああ、くそ! やっぱぜんぜん力が出せねえ!」


 リディアーヌの助けを借りず、ルフレ様はがばりと跳ね起きる。

 どうやら思ったよりも元気そうだ。


「だから嫌だったんだよ! ――おい、早くこっち来い!!」


 とこちらを招く声を聞きながら、私はよろよろと起き上がる。

 ルフレ様の言う通り、まずはとにかくロザリーから距離を取るのが先決だ。


 ロザリーの魔力が切れたのか、幸い今は爆発も止んでいる。

 今のうちに逃げないと――と混乱するソフィを叩き起こし、立ち上がらせたとき。


「――――どうして」


 ぞくりと寒気がするような低い声が、背後から聞こえた。


「ルフレ様、どうして、その子をかばうの。そんな偽聖女を」


 声は淡々とした声は、まぎれもなくロザリーのものだ。

 だけどなにか、様子がおかしい。

 元からおかしかったと言えばおかしかったのだけど――。


 ――なに、この『ぼこぼこ』って音……!?


 水が泡立つようでいて、それよりももっと重い音だ。

 まるで、泥沼の泡の……ような……。


「かばわれるのは私の方だわ。守られるのは私の方だわ。私が本当の、一番の聖女だもの。私を守って、私を敬って、私だけを称えるべきなのに」


 ぬちゃりと粘着質な水音がする。

 ロザリーの声は少しずつ大きく、強くなっていく。

 その合間に聞こえる、泥のような音も。


「なのに、みんな本当の聖女わたしを裏切るのね」


 顔を上げれば、血相を変えてこちらを手招きするリディアーヌたちが見える。

 ルフレ様も、取り巻きまでも必死に手を振る姿に、私は逃げるよりも先に――。


 後ろを振り返ってしまった。


「――――許さない。聖女を蔑ろにするなんて、人が許しても神々が許すはずがないわ」


 冷たいその声さえも、その瞬間は耳に入らなかった。

 私は背後に目を向けたまま、その場で凍り付く。


 ――なに、あれ。


 視線の先にあるのは、もはやロザリーの姿ではない。

 奇妙に大きい、黒い影の中――立っているのは、同じくらいに黒く、見上げるほどに大きな塊。

 どろりとした粘り気のある液体に覆われた、人の姿でさえないなにかだ。


「許さない」


 口を開けば、ごぽごぽと液体が泡立つ。

 足を踏み出すように、黒い塊が前のめりに傾くと、今度はねちょりと粘ついた音がする。


「許さない」


 冷たい風が吹けば、かすかな悪臭がした。

 生ゴミではない、今まで嗅いだことのないようなこの臭いに――私は心当たりがあった。

 これは、神様と同じ――。


 ――穢れ、だわ。


 身にあまる穢れ――と神様が言った意味を、私は肌で理解する。

 ロザリーはきっと、あまりにも恨みを抱きすぎたのだ。

 ルフレ様への恨み。リディアーヌへの嫉妬。信じていた取り巻きたちの裏切りに、ルフレ様にかばわれた私への憎しみ。

 強すぎる思いはロザリーには大きすぎ――耐え切れなくなってしまったのだ。


「許さない、許さない、許さない、ゆるさないゆるさないゆるさないゆるざないぃ――――!!!!」


 壊れたように、嘆くように、穢れは同じ言葉を繰り返した。

 粘ついた、手のように枝分かれした部位を持ち上げる姿に、私は身を強張らせる。

 今は、彼女に同情している場合ではない!


 ――叩きつぶす気だわ!


 はっと我に返ると、私は同じく唖然としていたソフィの腕を引く。

 そのまま、今度こそ振り返らずに足を踏み出すと――私は、思い切り息を吸った。


「て――――」


 足の向く先は、少し遠くで立ち竦むリディアーヌたちだ。

 彼女らに向け、私は大きく声を張り上げる。


「撤退!! 全員逃げるわよ――――!!!」


 叫び終えるのとほぼ同時。

 私たちのすぐ真後ろで、穢れが地面を叩く、ズシンという音が響いた。

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