10話

「ま、待ちなさい! 止まりなさい!!」


 追いかけてくる神官たちを撒き、人気のない建物の裏道を走る私を、リディアーヌ様が慌てて制止する。

 すでに太陽は落ち、空には月の浮かぶ時間。

 彼女は私の腕を振り払い、荒い呼吸でこう言った。


「あなた、なんてことをしたの! わたくしを連れて逃げるなんて……!」

「なんてことって言われても……」


 我ながら最善手だったと思う。

 あの状況、リディアーヌ様がどれほど無実を主張しても、アマルダたちに聞き入れてはもらえなかっただろう。

 おまけにリディアーヌ様自身、無実を主張するどころか誤解を振りまいている始末。

 下手に口で説得するより、もう物理的に引き離した方がマシである。


「今のわたくしをかばうなんて、馬鹿はあなたの方だわ! 余計なことをしなくても、わたくしは一人で平気でしたのに!」

「いや無理でしょ」


 ついついぽろっと、私の口から本音が出る。

 どう考えても、リディアーヌ様があの場を切り抜けられたとは思えない。

 どうせあのまま悪役にされて、神官たちから散々な説教をされるのだ。

 まあ、リディアーヌ様の立場なら、追放されることはないだろうけど――と考える私に向け、彼女は思いがけず、大きく首を振る。


「無理なんかじゃないわ! わたくしは今までも、ずっと一人でやってきたのだもの!」


 きつい顔をくしゃりと歪ませ、彼女は荒く息を吐く。


「あなた、せっかくアマルダ・リージュの親友なのよ? わたくしに関わって、わざわざ自分の立場を悪くするなんて、愚かとしか言えないわ。神殿に居場所がなくなる前に、今すぐ謝ってきなさい!」


「まさか! アマルダに謝るなんて、冗談じゃないわ!」


 リディアーヌ様の言葉に、私はぎょっと首を振る。

 聖女を押し付けられ、婚約の破棄の原因まで作った相手に、どうしてこっちが頭を下げなきゃいけないのだ。

 いくら脅されたって、金を積まれたって、絶対にお断りである。


 そうでなくとも――。


「リディアーヌ様は私をいじめていないし、私はそのことを伝えようとしただけでしょう。アマルダが勝手に勘違いして、話を聞かなかったのよ。なにも悪いことをしていないのに、なんで私が謝るのよ!」

「なぜって……! あなた、この神殿にいられなくなってよ!」


 顔をしかめたリディアーヌ様の様子から、私にも何となく事情は察せられる。

 これって多分、アマルダが現れてリディアーヌ様の立場がなくなったとか、そういう話なんじゃないだろうか。


 なにせ、これまで最高神の聖女がいたことはなかったのだ。

 自然とアドラシオン様の聖女であるリディアーヌ様が神殿の頂点にいて――それでまあ、この性格。

 気に食わない人も少なからずいただろう。

 特に、彼女がいなければ一番だったはずの――ルフレ様の聖女、とか。


 おかげで、頂点を追われたリディアーヌ様は、今やすっかり孤立してしまった――なんて話なのだろうけど。


「――だからどうしたってのよ」


 私は腕を組み合わせ、はっと鼻で息を吐き出した。


「どうせ、私の立場なんて最初からないも同然だわ。だって序列最下位で、しかも代理の聖女だものね!」


 やけくそ気味に吐き出すと、あとはもう笑うしかない。

 リディアーヌ様と仲良くするとか、しないとか、そんなこと関係ないくらいに現在の私は底辺なのだ。

 お父様の野郎も当てにならないし、これ以上落ちるところなんてないのである。


「そもそも私、アマルダと友達じゃないわよ! 敵よ、敵!」


 これでアマルダが嫌ってくれるなら、むしろ本望である。

 人の婚約を破談にしておいて、未だに親友と言える彼女の勇気に感服だ。

 まあ、アマルダはまだ婚約破棄のことを知らないのだろうけれど。


 ――どうせ言ったところで、『そんなつもりはなかった』とか言って泣き崩れるだけだわ!


 アマルダの泣き顔がありありと想像し、やさぐれた気持ちで「けっ」と私は喉を鳴らす。

 その様子を、リディアーヌ様はしばし無言で見つめていた。


 それから――一つ頭を振ると、重たく、深く息を吐く。


「……あなた、損をする性格ではなくって?」

「リディアーヌ様に言われたくないんですけど!」


 私も散々、姉から『要領が悪い』と言われてきた身だけど、目の前のリディアーヌ様を見れば、なるほど言いたくなる気持ちもよくわかる。


 もうちょっと上手くやればいいのに――なんて、私が思うくらいだから相当だ。

 呆れ半分にリディアーヌ様を見やれば、彼女はふい、と目を逸らした。


「……『様』は必要ないわ」


 私から顔を背けつつ、彼女はツンと顎を反らす。


「アマルダ・リージュの言う通りよ。この神殿においては、聖女はみな同じ立場。外の身分に左右されることもない」


 夜の風が、ふわりと彼女の髪を揺らした。

 あわく照らす月の下、胸を張る彼女に、私は無意識に息を呑む。


 これまでのきつい表情が今は少しだけ薄れているだろうか。

 かすかに目を細める彼女は、美しくて――気高い。


「誰が偉いわけでもなく、誰が劣っているわけでもない。みながみな、神聖なお方に仕える資格を持った者たちよ」


 リディアーヌ様の声が、夜の空に流れていく。

 落ち着きのあるその響きに、私は思わず――――。


「わたくしのことは好きに呼びなさい。敬語も要らないわ。わたくしも、あなたのことを――――」


 ぐう、と腹を鳴らしてしまった。

 やってしまった。

 やってしまった。

 やってしまった。


 ――うわああああああ……!!


 という内心の嘆きを口にすることさえ、今の空気では許されない。

 リディアーヌ様の言葉が止まり、周囲に恐ろしいまでの静寂が訪れる。


「…………」

「…………」


 無言のまま見つめ合うこと、しばらく。

 生きた心地のしない、長い長い沈黙のあと――。


「エレノア!!!!」


 リディアーヌ様、もといリディアーヌが例の威圧的な声を張り上げた。


「あなた、馬鹿にしているの!? わたくしの言葉をお腹の音で遮るなんて、そんなふざけたこと許されないわ!」


 来なさい!――と言うと、今度は彼女が、有無を言わさず私の腕を掴んだ。

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