21話

 片手にバケツ、片手にモップ。はたきやほうきを小脇に抱え、私は息を吸い込んだ。


 ――よし。よし!


「頼もう!」


 大きな声で扉を開ければ、昨日のうちにだいぶ片付け、すっきりとした神様の部屋が目に入る。

 少しきれいになった窓からは、朝の光が差し込んでいる。

 家具のなにもなくなった部屋は、思った以上に明るく、気持ちが良かった。


 明るい部屋の中、私は無意識に、暖炉の片隅に目を向けた。

 どうにも神様は、端っこにいる癖があるのだ。

 それもできるだけ目立たない、影の落ちる場所が多い。

 彼のことだから、『見た目で脅かさないように』とでも考えているのだろうが、影から現れるねとねと姿はかえって恐怖である。


 ……などと考えながら探していたのだが――。


 ――あれ?


 いつもの場所に姿が見えない。

 どこにいるのかと思えば、窓の傍。

 日差しの当たる明るい場所で、彼は日向ぼっこでもするようにゆるゆると震えていた。


「神様?」

「――ああ、エレノアさん。おはようございます」


 そう言って振り返る彼は、相変わらずの泥の山だ。

 けれど、少しだけ違和感がある。


 ――見た目はそんなに変わらないんだけど……。


「神様、ちょっとすっきりしました? それに、においもしなくなったような……?」


 身じろぎするたびに目に入る、ねばねばとした感じが薄れている気がする。

 いつもなら彼の周囲の地面が汚れているのだけど、今はそれもあまりない。


 しかし、神様本人に自覚はないらしい。

 私の呼びかけに、彼自身不思議そうに身を震わせる。

 その震え方も、『ねとねと』ではなく、どことなく『ぷるん』としている。


「そうですか?」

「気のせい……ですかね?」

「どうでしょう。私は目が見えないので、自分の姿を見ることができませんが……」


 困ったようにそう言ってから、神様は切り替えるようにゆるんと揺れる。

 それから、私を覗き込むかのように体を伸ばし、一つ穏やかな息を吐いた。


「元気になられましたね」

「あっ、はい。……昨日はお恥ずかしいところを見せてすみません」


 神様の指摘に、私は気まずく頬を掻く。

 昨日はずいぶんな姿を見せてしまったが、あのあと部屋に戻ってからひとしきり泣いて、翌朝には気持ちも落ち着いていた。


 ――思えば、泣いたのなんて久しぶりだわ。いつも怒ってばっかりだったし。


 私にとって泣きつく相手は、亡き母くらいだった。

 姉に愚痴を言うことはあるけど、なんというか性格上、どっちも怒りに傾きがちなのである。

 だけど昨日は、数年ぶりに涙腺が緩んでしまった。

 それもこれも、聞き手が神様だったからだろう。


「愚痴に付き合ってくださって、ありがとうございました。おかげで、もうだいぶスッキリしました」

「エレノアさん、良かっ――――」

「まあ、スッキリしただけで腹は立っているんですけどね!」


 ほっとしたような神様の言葉を遮って、私はガツンと掃除用具を床に下ろした。

 バケツに水は汲んであるので、容赦なく雑巾を叩き込んで絞り上げる。

 これが後々の、エリックと父の姿である。


「一晩考えたんですけど、慰謝料の話し合いで顔を合わせる機会があるんですよ。あの調子じゃ、手紙だとなにを言っても信じないでしょうけど、直接会えばいろいろ言いたいことも言えるでしょう?」

「……は、はい?」

「縋りつくような殊勝な真似はいたしません。本当のことを突きつけて、慰謝料なんてこっちから請求してやります! 毟り尽してやるわ! それが嫌なら、頭を下げて婚約破棄を取り消すことね!」


 あっちから『許してくれ!』と泣いて詫びてくるのなら、考えてやらないこともない。

 エリックの弱みを握ってしまえば結婚生活も安泰だ。

 姉のような理想の夫婦とは縁遠いが――まあ、それもよし!

 亡き母みたいに、だらしない男どもを引っ張って家を支える女傑なんていうのも、それはそれで憧れなのだ!


「…………本当に、元気になられて」


 もう、水の一滴も絞れなくなった雑巾を握る私に、神様がぽつりとつぶやいた。

 続いて聞こえる苦笑は、呆れたようでいて、安心したようでもある。


 神様のくすくすと笑う声は、いつもよりも少し明るい。

 神様の背にした陽光が眩しくて、私は知らず目を細めた。


 暖かい春の日差しが、冷たく薄暗かった部屋を温める。

 静かな部屋に、ささやかな笑い声。

 狭く、なにもない場所を心地よく感じるのは、このやわらかな空気のせいだろうか。


 私は、日差しに揺れる楽しげな神様を見つめ――。


「…………そういえば」


 どうしてか、こんなことを口走っていた。


「穢れを払うために、神様と聖女が肌を重ねる必要がある――って、本当ですか?」



 私の何気ない問いに、神様が「ごふっ!?」と聞いたこともない音を立ててむせた。

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