18話
「…………婚約、されていたんですね」
私の話を一通り聞き終えたあと。
神様は、ぽつりとそう呟いた。
「破棄されましたけどね!!」
はっはー! と乾いた笑い声を上げながら、私は窓のガラスを力の限り拭いていた。
外を見やれば、すっかり太陽が斜めに傾いている。
建物の陰に位置する部屋も、朝早くと日暮れ前だけは陽光が差し込んでくれるらしい。
窓を拭いたおかげで、そのことがよくわかった。
「お姉様が、『好きな人をアマルダに会わせるな』って言っていた意味がよく分かりましたよ! 別に、まだ好きだったわけじゃないですけども!!」
婚約者のエリックと私の間には、恋愛感情があったわけではない。
互いを引き合わせたのは親同士だし、私たちも政略結婚だとはよくわかっていた。
ただ、『だから相手を疎んでいた』ということはない。
セルヴァン伯爵領に行くときは挨拶に顔を出したし、あちらもクラディール伯爵領に来たら顔を見せに来た。
誕生日には贈り物をし、祝祭の日には手紙を交わし、パーティに呼ばれたら予定を合わせ、一緒に出掛けるくらいには上手くやっていた。
私は別に、エリックのことが嫌いではなかった。
エリックも私を『ノア』と愛称で呼ぶくらいには打ち解けてくれていた。
恋心はないけれど、結婚してから築き上げていくものもあるだろう。
いつか彼が、私にとって特別な相手になる。そんな日が来るのだ――。
――なんて、笑い話だわ!! あっははは!!
「アマルダと私なら、そりゃあアマルダを選びますよ! アマルダは女の子らしいですし? 見た目もまるでお人形さんですし? 気弱で、お優しくて、おまけに最高神の聖女! ああいう子が好きなんですよ、男って!」
――まあ、わかるわよ! アマルダのことをよく知らない人ほど、あの子のことを好きになるのよね!
だって傍から見れば、アマルダは絵に描いたような良い子なのだ。
自慢はせず、愚痴はほとんどこぼさず、いつも他人のことを思ったような言葉を吐く。
その『他人のことを思ったような言葉』がありがた迷惑だなんて、やられた当人にしかわからない。
下手に文句を言えば、親切を無下にしたとして、こっちが悪者とみなされる。
実際に姉は悪者にされて、未だに父から誤解されたままだ。
「アマルダに悪気はないんでしょうけど、比べられる方はたまらないわ! だって私は真逆ですからね! がさつだし、気も強いし、ひねくれてるし!」
「……エレノアさん」
神様の声を背後に、私は壁にこびりついた何十年物の汚れをこする。
ちょくちょく穢れらしきものも見受けられるが、乾燥しているものは大丈夫だということは、ここ数日で理解していた。
ぐっと雑巾で拭えば、少しだけ元の透明さを取り戻した窓が見える。
窓には怒りに歪んだ顔の私が映っていて、ますます腹が立ってくる。
ふん、と鼻で笑うと、自分の顔を拭き取るように、私は荒く窓をこすった。
「どうせ、私は可愛くないですよ! 心清くもないですよ!!」
「……いいえ」
「気を使わなくていいですよ! 別に、自覚してますから!!」
背中から聞こえる声を、私は一息に切り捨てる。
優しい神様なら、当然私に慰めの言葉をかけてくるだろうとは知っていたけれど――。
「アマルダを見たら、神様だってそう思うはずですもん! というか、神様だって最初はアマルダを聖女にしようとしていたじゃないですか!」
神様にとっても、私はアマルダの代理なのだ。
今さら慰めてくれたところで、その事実は覆らない。
婚約者としても聖女としても、私はアマルダより劣っている。
選ばれるのはアマルダで、私は捨てられるか、良くて代役をさせてもらうかだ。
「――いいえ」
けっ、と息を吐く私の後ろ。
神様が、もう一度同じことを繰り返す。
先ほどよりも少し強い響きに、私は眉間にしわを寄せた。
「神様、慰めなんて――――」
「慰めではありません。たしかに最初は、アマルダさんが私の聖女になる予定でした」
ですが――と告げる神様の姿も、窓に映っている。
顔も体もない、泥の山。
だけど、なぜだろう――。
「今の私は、あなたのことを知っています。エレノアさん。あなたは心優しく、可愛らしい女性です。そんな風にご自分のことを言わないでください」
彼がまっすぐに、私を見ているのがわかる。
窓を拭く手が一瞬止まり、息を呑む。
瞬きを一度。
それから私は、反射的に視線を窓の外に逃がした。
一瞬の間を打ち消すように、私は声を上げて笑う。
「……そ、れは、ちょっとお世辞が過ぎますよ! 神様、聖女がいなかったからって、人間のことを忘れすぎだわ! 可愛いなんて、アマルダに比べたら私なんて――」
「比べませんよ」
神様の声は、さっきよりもさらに強い。
彼にしては低くて、押し殺したようで――彼らしくもなく、ひどく不機嫌そうだった。
「誰かと比べたりはしません」
念を押すように、もう一度神様は繰り返す。
振り返らない私から、神様は目を離さない。
「私にとっては、『あなた』が素敵な人なんです」
静かな夕暮れの部屋の中。
神様の声だけが、強く、はっきりと響いていた。
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