8話

 今日は体を休める必要があるだろう――ということで、結局私は、掃除もせずに部屋を出ることになった。


 薄暗く湿っぽい神様の部屋を出て、扉を閉めたあと。

 私は外の空気を大きく吸い――そのまま、ため息として吐き出した。


 まだ、頭の中にあの気持ち悪いくらいの悪意が残っている。

 あれを神様は、ずっと身にまとい続けているのだ。


 ――なにが『無能神』よ。


「…………ぜんぜん、無能じゃないじゃない」


「当り前だ」


「ひょえっ!?」


 予期せず聞こえてきた声に、私は奇声を上げてしまった。

 慌てて振り返れば、すぐ隣にアドラシオン様が立っていた。


 ――ま、まったく気配がなかったわ……!


 さすが神。心臓に悪い。

 驚きのあまり心臓がバクバク言っている。


 そんな心臓に、アドラシオン様の射抜くような視線が追い討ちをかける。

 まるで感情のない、冷たく凍てついた目で私を見やり、彼は吐き捨てるようにこう言った。


「無能神などと、よく言えたものだ。人間どもは、恐れ知らずにもほどがある」

「ご、ごもっともで――――うん? 恐れ知らず?」


 アドラシオン様の言葉に頷きかけて、途中でふと引っかかる。


 相手は、ずっと穢れを引き受けてくれた神様だ。

 無能神なんて失礼で、おそれ多い――というのはわかるけど、『恐れ知らず』はなんとなくイメージが違う。

 なにせ神様は、こんな扱いを受けてもなお、人間のために穢れを負い続けてくれているのだ。


 ――どういう意味だろう?


 と首をひねる私の横で、アドラシオン様は不意に片手を上げた。

 その手のひらに魔力が集まるのを見てぎくりとする。


 ――まさか、天罰!? 私に!?


 心当たりは――――ある。いっぱいある。

 神様のことを無能神と呼んだし、聖女になるのも嫌がった。

 そもそも代理聖女なんて、普通の神相手ならばそれだけで天罰ものだ。


 それとも、アドラシオン様を前に礼を尽くせていなかったことが悪いのだろうか。

 昨日は挨拶する前にアドラシオン様がいなくなって、今日は寝起きの対面で、思えばろくな挨拶も交わせていない。


 ――アドラシオン様にこんな態度……許されるはずがないわ……!


 人間を相手にまったく感情を見せないアドラシオン様は、恐ろしい神様として有名だ。

 正義感が強く、悪に対して容赦がないことでも知られている。


 手のひらの魔力はどんどんと大きくなる。

 これは終わった――と身を固くした、次の瞬間。


 彼の手の中には、丸い果実のようなものが握られていた。


「くれてやる。食べ物に難儀しているのだろう」

「……ど、どうかご慈悲を――えっ」


 えっ。


 と瞬く私に向けて、彼は乱雑にそれを放り投げた。

 慌てて受け止めたそれは、みずみずしくて少しやわらかい。見たことのない果実だ。


「そのまま食べられる。……本来、神は自らの聖女以外に直接手出しすることを禁じられているが――俺は例外だ」

「あ……ありがとうございます……?」


 手の中の重みを呆然と感じつつ、私はどうにかそうつぶやいた。

 疑問形になってしまったのはしかたがない。

 今でもまだ、天罰ではないことに驚いている。


 果実を私に投げた後も、アドラシオン様の凍てつく威圧感は変わらない。

 表情は冷たく、視線は鋭く、声音にはまるで感情が見えない。


 なのに、手元には果実がある。

 あれっぽっちの食事ではとうてい満足できず、内心空腹を抱えていたことなんて、話した覚えもないのに。


 ――…………意外に、親切?


 困惑する私に、アドラシオン様は眉一つ動かさない。

 施したという態度さえ取らず、淡々とこう告げる。


「礼は要らん。あのお方が、久しぶりにものを口にしてくださった。礼を言うなら、こっちだろう」

「い、いえ、私はなにも……」

「あのお方は、神からはなにも受け取らない。お前のおかげだ」


 私の謙遜を拒むように、アドラシオン様ははっきりと告げる。

 次の言葉が継げなくなって、私は思わず目を伏せた。


 ――だって別に、本当に大したことしていないし。


 アドラシオン様に礼を言われることなんて、それこそおそれ多い。


 ――別に食べ物なんて誰でも……って、待って? 神からはなにも受け取らない?


 なにか、そういう制約でもあるのだろうか。

 神々は人間との関わりを抑制するために、わざわざ自分からルールを設けることがある。

 先ほどアドラシオン様が言った、『神は自らの聖女以外に直接手出しができない』というのもその一つだ。

 会話くらいならいいけれど、神の力で直接相手に干渉をしてはならないのだと、建国神話のころから決まっている。


 神様とアドラシオン様は神同士だけど、なにかそういう取り決めがあるのかもしれない。

 そんなことを考えながら、アドラシオン様をちらりと伺い見たとき――。


 ちょうど、彼の冷たい視線と目があった。


「な、なんでしょう……?」

「いや」


 ぎくりとする私など意にも介さず、彼は私を見つめている。

 顔から体、足元まで値踏みするように眺めまわし――最後に一つ、ため息を吐いた。失礼な。


「……魔力が薄弱だ。よく穢れに呑まれずにすんだものだ」


「はい……?」


 と首を傾げたところで、答えてくれるとは限らないのが神々である。


「お前にもう少し魔力があればな。あのお方の穢れを払い、元のお姿を取り戻せたかもしれぬだろうに」


 アドラシオン様は一人、惜しむようにそう言うと――。


 次の瞬間には、最初からそこにいなかったかのように、姿を消していた。


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